白銀の討ち手 旧ver.

白銀の討ち手【旧】 その2

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獲物
シャナ『ふふ…ついに見つけたわ…究極のメロンパン』
メロンパンナ『あ、あなたは誰!?』
シャナ『その首、貰い受けるッ!』
メロンパンナ『きゃぁあああああああ!!』
シャナ『いっただっきま~す♪』


「シャナ、そのメロンパンは食べちゃダメ━━━みぎゃッ!?うわわ!?」
恐ろしい夢に飛び起きて、ちょうど頭の上にあった分厚い本に思い切り頭突きをかましてしまったが、そのショックで何の夢を見ていたのかは忘れてしまった。本の装丁があまりに丈夫だったので、額を抑えて転げまわる。そしてそのまま床に落下した。
「なーにやってんのよ、ちびじゃりモドキ」
「ひーっはっはっはっ!嬢ちゃん、なかなか石頭だな!」
聴きなれた呆れ声が上から降ってくる。見上げると、長身の美女が片眉をあげてこちらを見下ろしていた。
優しく肩を抱き上げられ、元の位置に寝かせられる。そこはソファのようだった。顔にかかった黒髪の房を払いのけて茫洋とした眼差しで周りを見渡すと、そこは見慣れた友だちの家の一室だった。まるで老舗のバーのような、決して広くはないけれど厳かで落ち着ける空間。
マージョリーさんが僕の隣によっこらせと腰を下ろす。
「ここは、佐藤の家…?」
「せーかい…って、あんたがどうしてケーサクの家まで知ってんのよ」
ぎくり、と思わず肩を震わせてしまう。あはは…と苦笑して誤魔化そうとする。が、刺すような追求の眼差しは消えない。
「え、えーっと、さっきは頭ぶつけちゃってごめんね、マルコシアス」
「いいってことよ。もっとひでーこと毎日やられてるからな。それよりも、早く正体明かしちまった方が身のためだと思うぜぇ?」
「う…」
テイレシアスは相変わらず黙りこくったまま。こういう時のテイレシアスはちっとも役に立たない。
僕は逡巡する。彼女に話しても問題は生じないか、と。マージョリーさんは、僕が応えるのをじっと待っている。…つま先がガツガツと貧乏ゆすりをしているが。
しばらく悩んだ後、僕はマージョリーさんにすべてを話すことにした。こんな荒唐無稽な話を信じてくれる人は他にいないだろうし、数百年も戦いの世界に身をおき、さらに自在法に詳しいマージョリーさんなら、もしかしたら僕たちが過去に来てしまった原因もわかるかもしれない。
都合のいい期待だろうが、何もしないよりはマシだった。
「マージョリーさん、全てを話します」
「ったく、待たせすぎ!ほら、ちゃっちゃと話しなさい!」
がーっとまくし立てられる。僕はまた苦笑する。どんなに重い話でも、マージョリーさんとマルコシアスなら笑って受け止めてくれそうな気がした。
僕は一度軽く息を吐くと、嘘を言っていないとわかってもらうために無理やり笑顔を作って、話し始めた。

「僕は、坂井悠二なんです」


僕とシャナが仮装舞踏会の軍勢と戦い、負けたこと。

僕が殺され、零時迷子を奪われ、消えてしまったこと。

消えかけの僕を『贋作師』テイレシアスが助けてくれたこと。

目が覚めたら過去の世界に来てしまっていたこと。

この世界にはこの世界の坂井悠二がいるから、自分はこの街を去ろうと考えていたということ。


マージョリーさんは最初は信じてくれなかったらしく厳しい目つきで睨んできたが、だんだんと穏やかな顔になり、黙って聴いてくれた。呆れて聞き流しているのかもしれないと思ったが、最後まで話すことにした。
話が終わっても、マージョリーさんは口を開こうとはしない。
やはり、信じてもらえるというのは僕の甘い幻想だった。僕だって、いきなりこんな話を聞かされても信じられない。当然だ。
「…やっぱり、信じてはもらえませんよね。すいませんでした、変な話を聞かせちゃって」
うな垂れて呟く。失意はあったが、誰かに話しておきたいという気持ちはあったから後悔はしていない。僕はまだ痛む体に鞭を打ってゆっくりとソファから立ち上がると、懐かしい部屋を後にしようと扉へ歩く。

「どこ行くのよ、ユージ」

背後からかけられる、懐かしい声。もう二度と聴けないと思っていた、僕の名前を呼ぶ声。振り返れば、マージョリーさんの微笑があった。胸が締め付けられ、熱くなる。


「信じて、くれるんですか?」
声が震えてしまう。男なんだから堂々としていなくちゃダメだと自分に言い聞かせるが、込み上げてくる感情は抑えられない。
マージョリーさんがやれやれと苦笑して僕に近づき、頬を撫でる。優しい手つきだった。
「これでも何百年も生きて、人間を見てきたんだから。━━━だから、嘘をついている人間がこんな涙を見せるはずがないってことも、わかんのよ」
マージョリーさんの言葉でようやく、僕がいつのまにか涙を流していたことに気づいた。悲しくもないのに、なんで…。
恥ずかしくなって手の平で拭うが、涙は止まってくれない。胸の内から沸き起こるこの気持ちと同じように、次々と溢れてくる。手の平では抑えられなくて袖で拭うが、それでも涙は止まらない。
「あんた、もう女の子なんだから、泣いたっていいんだよ」
頭を優しく撫でられる。もう限界だった。
マージョリーさんに抱きついて子供のように泣いた。情けなくて恥ずかしかったけど、嗚咽は止まってくれなかった。僕が泣き止むまで、マージョリーさんはずっと抱き締めてくれていた。

「…す、すいません。恥ずかしいところをお見せしちゃって」
泣きすぎて赤くなった目を隠すように俯いて頬をかく。恥ずかしい…。
「こっちはちびじゃりがわんわん泣いてる姿を見れて新鮮だったけどねぇ」
そんな僕の髪の毛をマージョリーさんはワシワシと掻き乱して笑った。本当に気持ちのいい人だ。
「ううっ、泣けるじゃねぇか!ちくしょう!」
マルコシアスが分厚い表紙を震わせて咽び泣く。アラストールに戦闘狂と誹議される彼だが、実は涙脆いところもあるのだ。
はたと、自分の胸元からも微かな啜り上げる音が聞こえた。
「テイレシアス、もしかして泣いてる?」
テイレシアスは無言だったが、小刻みに鼻から息を吸い込む小さな音が返ってきた。その珍しい一面を見てマージョリーさんと顔を見合わせて笑う。
「しっかし、あんたも凄い力を身につけたもんだね。シュドナイの神鉄如意まで作るんだから、さすがの私も驚いたわ」
ばしばしと肩を叩かれる。褒められているような気がして、なんだか背筋がくすぐったくなる。照れ笑いを浮かべて、

━━━━そうだ、シュドナイ!!

「ま、マージョリーさん!シャナが危ない!キュレネーは時間稼ぎで、本当は零時迷子が目的だったんです!シュドナイが……!!」
くそっ、今までどうして忘れていたんだ!?自分の不甲斐なさに腹が立つ!
今すぐ駆けつけたいけど、もう僕に力は残されていない。おそらくマージョリーさんも同じだろう。いったいどうすれば…!?

しかし、マージョリーさんは目を丸くして不思議そうにマルコシアスと目を合わせる。マルコシアスのどこが目なのかはわからないが。
「『螺勢』がシュドナイが来るって言ったの?」
「え?い、いえ…」
そういえば、キュレネーは零時迷子を狙っていると言ったがシュドナイが来るとは言っていなかったような…。
「『螺勢』は基本的にフリーよ。時々雇われて誰かと組むことはあるけどね。大方、零時迷子を狙う奴と組んだんでしょ。『螺勢』がちびじゃりを足止めして、その間に他の奴が、えっと、“この時間のユージ”を襲うって寸法だったんでしょうね」
マージョリーさんも、僕が二人いることに多少混乱しているらしい。それは仕方ない。僕だって自分が二人いることにはまだ混乱している。
シュドナイが出てこないことがわかって少し安心する。でも、シャナたちが襲われることに変わりはない。そんな不安を隠そうとしない僕に、マージョリーさんは相好を崩して、
「ちびじゃりの分、あんたが戦った。足止めされているはずのちびじゃりっていう計算外の戦力がいれば、零時迷子は奪えない。あんたがちびじゃりたちを救ったのよ」
「…僕が、救った?」
呆然と発した言葉にマージョリーさんが頷く。今までずっと誰かに守られてばっかりだった僕が、シャナたちを救った。マージョリーさんはそう言ってくれた。


 ━━━ああ、そうか。ようやく僕は、誰かを救えるほどに強くなれたのか━━━


シャナとそっくりの小さな体を抱き締めて、僕はもう一度静かに涙した。

 ‡ ‡ ‡

マージョリーの予想は悉くあたっていた。
キュレネーは仮装舞踏会に所属しておらず、先の戦闘は仮装舞踏会とは何の関係もないものだった。
紅世秘法中の秘法、存在の力を回復し続ける超常の永久機関『零時迷子』を求める者は仮装舞踏会だけに限らない。“彼”もまた、零時迷子を狙う紅世の王の一人だった。

「━━なぜ、こうなった?」
紅世の王が一人、『風雲(ふううん)』ヘリベは、次々と倒されていく配下の燐子たちを虚ろな眼で眺めながら、呆然と呟いた。
作戦はごく単純で、だからこそ完璧なはずだった。強力な助っ人として雇った『螺勢』キュレネーが『炎髪灼眼の討ち手』を誘き寄せ、時間を稼ぐ。その間に一人になった零時迷子を宿すミステスを自分の燐子たちが襲撃し、零時迷子を奪う。遠距離からの圧倒的な物量による攻撃を得意とするキュレネーならば、自在法を苦手とし、近接戦を得意とする『炎髪灼眼の討ち手』相手に十分な時間稼ぎができる。
それを見越してからか、『炎髪灼眼の討ち手』はなかなかミステスの傍から離れなかった。だからこそ、キュレネーからの『炎髪灼眼の討ち手』を誘い込んだという報せが入った時は心が躍った。そのすぐ後に、『弔詞の詠み手』までも封絶内に誘い込んだと聴いた時など、あの変態女を抱擁してキスをしてやりたいとさえ思った。まさに天はこのヘリベを味方したのだ。
零時迷子を手に入れるべきはこの自分であり、断じて仮装舞踏会のような薄汚い連中ではあってはならない。零時迷子はこのヘリベのためだけに存在する。永遠の命と力を持って、紅世もこの世界も手中に収める。
征服欲の強いヘリベは、ただそれだけを胸に、いざ零時迷子へと自らの燐子を侍らせて襲い掛かった。

だが結果はどうだ?ここより遥かに離れた場所でキュレネーが足止めをしていたはずの『炎髪灼眼の討ち手』は、キュレネーとの戦闘の片鱗などまったく見当たらず、まるで無傷の状態で自分の前に立ちはだかった。
無論、そこまで頭が回っていなかったヘリベではない。万が一、キュレネーが瞬殺されたり、他のフレイムヘイズが加勢に来ても問題ないように、今まで集めたありったけの存在の力を使い、百を超える燐子の大群を作っておいたのだ。彼は、真名が示すとおり、風のように早く、雲のように姿を消す能力に長けていた。戦いを有利に進めるのは力ではなくスピードであると確信する彼にとって、この力はまさに天からの授かり物であった。
燐子たちにフレイムヘイズの相手をさせ、巧みにミステスから離し、その隙に高速でミステスを襲えばいい。誰よりも戦術に長けていると自負する彼は自信に充溢していた。

「シャナ、左の敵を叩くんだ!」

ミステスが『炎髪灼眼の討ち手』に向かって指示をし、それに強く頷いた『炎髪灼眼の討ち手』が大太刀を振り回す。フレイムヘイズがミステスの指示に従っていることがすでにヘリベの理解の範疇を超えていたが、それよりも彼を驚愕させたのは、ミステスの戦術能力であった。
ヘリベが頭を捻って導き出した必勝の陣形を悉く看破し、逆にこちらの手駒を次々と奪っていく。気がつけば、燐子の数は当初の10分の1以下になり、ヘリベにはもはや打つ手は残されていなかった。親指の爪をヒステリックにがりがりと噛み千切る。
唐突に、キュレネーの動向を監視させていた想像上の獣の形をした配下の燐子が血相を変えてヘリベの元に降り立った。
「ヘリベさま、キュレネーが敗れました!」
「なんだとッ!?」
血走った眼を剥いて叫ぶ。
キュレネーの奴め、どこまでこの私の期待を裏切れば気が済むのだ!やはり奴など頼ったのが間違いだった。もっと優秀な紅世の王を加勢にすればよかったのだ。
だが、今となっては悔やむことしかできない。
「ヘリベさま、我々はどうすれば…!?」
「うるさい、役立たずどもめッ!!いいから貴様らは特攻よろしくあいつといっしょに死ねばいいんだよッ!!」
燐子を怒鳴りつけ、その腹を蹴り飛ばす。こうなったら、この役立たずどもを時間稼ぎにして逃げるしかない。もともとヘリベは戦闘を得意としているわけではないのだ。
まだ自分がここで燐子たちを操っているということまでは見抜かれていない。堪えられない屈辱だが、撤退は致し方なかった。
歯軋りしながら、逸走せんと背の翼を展開させる。
━━━翼の感覚が返ってこない。
代わりに神経を伝わって返ってくるのは、焼け付くような激痛だった。ばさり、と自分の翼だったものが左右に音を立てて落ちる。肉の焼ける臭いが鼻を突いた。
「ぃいぎっ、うが、ああぁあああ!?」
あまりの激痛に耐え切れず、もんどりうって地面に倒れる。回る視界の中に、紅蓮に燃える大太刀が見えた。知らぬ間に『炎髪灼眼の討ち手』が背後に現れたことを、ヘリベはようやく悟ったのである。なぜ自分が隠れていた場所がわかったのか痛みにもだえるヘリベには想像もつかなかったが、『炎髪灼眼の討ち手』の背後からミステスが姿を現したことでようやく理解ができた。
「そうか、ミステス、お前が…ッ」
「陣形が次々に変化していたからね。その度に誰かが命令を与えてるんだって気づいたんだ。陣形の変わる速さで、命令をしているあんたの位置もだいたいわかった」
自信に満ちてそう告げたミステスの洞察力に、ヘリベは唖然とした。このミステスは、百幾年の時を生きた紅世の王である自分をも上回る戦術家だったのだ。
『炎髪灼眼の討ち手』が大太刀を上段に振りかざす。痛みというものに慣れていなかったヘリベに、冷静な思考も即座の行動もできるはずがなかった。頼みの綱の燐子はすべて灰と化し、キュレネーは死んだ。
絶望と諦観に囚われ痛みに明滅する視野を炎の太刀が一閃する。そして、ヘリベの夢はそこで潰えた。

 ‡ ‡ ‡

「なんだったのよ、まったく」
シャナが贄殿遮那を夜笠に突き入れる。質量的に絶対に入りそうにない大太刀を、夜笠はマジックのように収納した。真っ赤に燃え立つ長髪は平常時の黒髪に、紅蓮の瞳も黒真珠のように冴える瞳に戻る。
「いきなりの襲撃だったね。シャナがいなかったら今頃危なかったよ。ありがとう、シャナ」
悠二がにこやかに礼を言う。本人は気づいていないだろうが、その爽やかな笑顔はシャナにとっては拳の一撃に匹敵する威力を有している。ボディーブローに等しい笑顔を唐突に向けられて、シャナの白い頬が一気に朱色に染まった。
ここで何か気の利いたことを言っておかないと、吉田一美に悠二をとられてしまう!
「え、えと、悠二がいてくれたから、その、こんなに簡単に勝てたわけで、だから…」
勇気を振り絞って悠二の功績を褒めてみたが、やっぱり恥ずかしくて声がだんだんと小さくなっていく。言葉尻を濁らせて言いよどむシャナを、電撃文庫の主人公の中でも上位に位置する鈍さを誇る悠二は不思議そうな顔で見つめる。
「シャナ?聴こえないよ、なんて言ったの?」
その言葉はシャナに対する最大の屈辱と言っても過言ではなかった。恥ずかしさと怒りが小さな体躯をブルブルと奮わせる。
「うるさううるさいうるさい!!悠二のバカァッ!!」
悠二の胸元を掴み、足を払うと背負い投げの要領で思いっきりぶん投げた。シャナの身体能力の足元にも及ばない悠二の体は簡単に宙を舞う。
「えええええ!?なんでぇえええええ!?」
ぎゃあぎゃあといつも通りのケンカをする二人を眺め、アラストールはいつもの如くため息をついた。
やれやれ。この娘はもっと素直になれないものか。とは言え坂井悠二が鈍すぎるのも考えもの…。って、我はなぜ二人がくっつくことを望んでいるのだ!?
うぬぬ、とアラストールが自問しかけた瞬間、
「━━━ん?」
微かに、今まで感じたことのないフレイムヘイズの気配を察知した。かなり微弱だったが、『天壌の劫火』と謳われ、紅世において絶大な権限を持つ『真正の魔神』である彼の超常的な察知能力はそれを見逃さなかった。
新たなフレイムヘイズがこの街にやってきたのだろうか?それにしては反応が微弱すぎる。通りかかっただけかも知れない。この街はフレイムヘイズが多い。馴れ合いを好まず多くの紅世の徒を討滅することを生き甲斐とするフレイムヘイズなら、この街に用はないだろう。しかし、この紅世の王の気配はどこかで…。
「どうしたの、アラストール?」
気づけば、シャナと悠二が自分を見ていた。報せる必要があるのかどうか迷ったが、もう一度気配を探ってみても反応はなかった。それがわかると、アラストールは報せる必要はないと判断した。それに、紅世の徒や王が来たならまだしも、フレイムヘイズが増えたところでこちらに支障はない。
「いや、なんでもない」
杞憂に過ぎないと、アラストールは新たなフレイムヘイズのことを頭から切り捨てた。そのフレイムヘイズが、他でもない『白銀の討ち手』だとも気づかずに━━━━。



 ‡ ‡ ‡

「しゃわー…ですか?」
「そう、シャワー」
いきなりタオルを押し付けてきたマージョリーさんが、猫のように僕の襟首を引っ張りながら告げた。
しゃわーって……まさか、あの“シャワー”!?
「え、えええええッ!?いいですよ、遠慮します!」
じたばたと抵抗するが、疲労が回復しきっていないこの小さな体では長身のマージョリーさんに逆らうことができず、ずるずると浴室へ引っ張られていく。
たしかに体は汚れているけど、でも、しゃ、シャワーなんて!
この体は僕のではなく、シャナと寸分違わない女の子の体なのだ。鏡でシャナの体を見てしまった時でさえ気絶してしまったのだから、体を洗うなんてしたらどうなるのか…。自分が暴走してしまいかねない。だって、いろいろ触らないといけないし。その、いろいろなところを!
「はいはい。思春期の男の子だから大変だってことはわかるけど。でも汚い格好のままでいるわけにもいかないでしょ」
「う、その、でもぉ…!」
ついに脱衣所に着いてしまった。佐藤の家はかなり裕福なので、脱衣所すらでかい。下手したら僕の部屋がすっぽり入ってしまうんじゃないだろうかってくらい広い。
涙目で抵抗するが、マージョリーさんは僕の頭にタオルとシャンプー石鹸一式が入ったプラスチックの籠を載せる。
「可愛い顔して言ったってダメなものはダメ。ちびじゃりの体を埃だらけのまま放っておいてもいいっての?」
「そ、それは……。あ、テイレシアス、浄化の炎とか出せないの!?」
シャナは、アラストールに浄化の炎を使ってもらって体の汚れを消していると言っていた。マージョリーさんも、ひどい二日酔いはマルコシアスの浄化の炎で回復してもらっていたはずだ。だったら、同じ紅世の王のテイレシアスにもできるのではないか?
最大級の期待の視線をペンダントに向ける。頼む、テイレシアス。僕はお前を信じてるぞ!

「……」

「できないのか?できないのか!?」
無言のペンダントをぎりぎりと握り締める。信じた僕がバカだったよ!
僕たちの漫才を見ていたマージョリーさんが鼻を鳴らしてぱんぱんと手を叩く。
「はいはい、無駄な抵抗はしなーい。さっさと入るんだよ、着替えは用意しといてあげるから」
「あ、待っ…」

ぴしゃん。

…行ってしまった…。
壁にはめ込まれた姿見を見る。ボロボロになって埃と煤にまみれたチャイナドレスとブレザーを着たシャナが複雑そうな顔をして映っていた。
たしかに、傷は全部癒えたけど、さんざん地面に転がったから体中が汚れている。血の痕もそこらじゅうの肌にこびり付いている。顔には涙の痕がクマみたいに残っていてパンダみたいだ。このままにしておくのはシャナにも悪いし、何より不潔なのは好きじゃない。これからこの体で生活していくのなら、どうせいつかは通らなければならない道だ。
それに、今からすることは自分の体を洗うことなのだ。負い目に感じることなんて、ないじゃないか!
僕は心の平穏を保つべく大きく深呼吸をすると、一気に着ていた服を脱ぎ捨てて、なるべく鏡が視界に入らないようにして浴室へと足を踏み入れた。下を見ないようにして体を洗えば、なんとかなるさ。



「…ちくしょー…」
シャワーのノズルがぶら下がっている。その向こう側には、湯気で四隅が曇っている四角形の鏡。佐藤の家は、こんなところにまで鏡があるのか…。計算外だった。
僕が自分の浅はかさに涙していると、
「どうした、洗わんのか?」
地鳴りのように低い声が胸元から聴こえてきた。思わず俯こうとして、つるりとしたビードロのような小ぶりの双球が眼に入って急いで顔を上げる。
テイレシアスを首にかけたまま入ってきてしまった。もともとこの体を作ったのはテイレシアスだから見せるのは恥ずかしくないはずだが…でも、なぜか顔が赤くなる…!
「あ、洗うともさ!」
シャンプーを大量に手の平にぶちまけ、髪の毛にべちゃりとつける。そしてそのまま一気にガシガシと洗い始めた。途端に、テイレシアスがこらこらと呆れたような声を上げる。
「そんな乱暴にしたら、髪の毛が痛むだろうが。もっと丁寧にやるんだ。せっかく作ってやったんだ。戦いでできる傷は致し方ないが、手入れくらいはきちんとしろ」
うう…早く済ましてしまいたいのに。こっち気もしらずに、この紅世の王は…。
だけど、その言には一理ある。シャナの体を粗末に扱うことは僕もしたくない。僕は苦々しげに唇を尖らせながら、テイレシアスの指示に従うことにした。こと贋作の手入れに関しては、テイレシアスはかなり念を入れるようだ。
ここからは台詞だけにしておく。どこを洗っているかは、聞かないで下さい…。


「もっとすり込むようにな」
「わかってるよ…」


「そこは大切なところだからより丁寧にな」
「う、うん…」


「そこの窪みもだ」
「こ、ここも!?」



手探りで蛇口を探す。蛇口の感触を見つけるといっぱいに捻って熱いお湯を流した。湯飛沫が頭や肩を打ち据え、全身を覆っていた泡を洗い流していく。
「はふー…」


きっと今の僕の耳は真っ赤になっているだろう。今日の体験は永遠に忘れないと思う。それくらい凄かった。女の子の体って、神秘だなぁ…。
鏡を覗くと、頬と耳たぶを桜色に染めて恍惚の表情をした顔が映る。濡れそぼった髪が新雪のような肌に貼りついていて、やけに色っぽかった。
な、なんて顔をしてるんだ僕は!これじゃまるで本物の女の子だ!
バシバシと頬を叩いて表情を引き締める。これ以上この空間にいてはいけない!僕のアイデンティティがピンチだ!
長い髪の毛をタオルで包んでいそいで体を拭くと、僕は早足で脱衣所へと飛び出した。
慌てていた僕に、脱衣所に誰かがいるなんて気づけるはずもなかった。

 ‡ ‡ ‡

「…なんで俺たちがこんなの買わされなくちゃいけないんだ?」
「さあな…。でも姐さんが買って来いって言ったんだから、きっと必要なものなんだろ」
佐藤の家の幅広な廊下を、その家の実質的な主である佐藤啓作とその親友である田中栄太は何ともいえない表情をしながらとぼとぼと脱衣所まで歩いていた。
啓作の手には大きな無地の紙袋が。栄太の手には小さな紙袋が握られている。そこには近くの女性用下着専門店のロゴが記されていた。
マージョリーの一の子分を名乗る彼らは例によってマージョリーとともに戦うために、テニスコート二つ分は優に超える庭園で大剣型の宝具『吸血鬼 (ブルートザオガー)』をなんとか振り回そうと特訓中であった。
そこへ、いつのまに帰ってきていたのかマージョリーが現れ、労いの言葉でもかけてくれるのかと思いきやとんでもないことをのたまったのだ。

「あんたら、ちょっと女の子用の下着を買ってきてくれない?」

何かの冗談なのかと思ったが、あいにくとそうではなかった。尊敬するマージョリーの頼みを無碍にできるはずもなく、陽が傾いて世界を赤く染める中、二人は泣く泣く下着専門店へと走ったのであった。
大柄で筋肉質な栄太だけだったならば追い出されていたかもしれないが、とりあえず美をつけてもいい容姿をした啓作が共にいたため、変質者を見る視線を向けられながらもなんとか買ってこられた。口のうまい啓作はしきりにこの下着は妹のものであって決して悪用はしないと女性店員に弁解していたが、店員の苦笑いは最後まで消えることはなく、彼の記憶には重大なトラウマが刻み込まれることとなった。
「俺、しばらくあの店の近くには行けないぜ…」
「ああ、俺もだ」
二人して同時に深く息を吐く。夕日が差し込む廊下をぐったりとした表情で歩く彼らの背中はとても小さく哀れに見えた。

「あれ、誰か入ってる」
脱衣所に入ると、浴室の中からシャワーを浴びる音が聴こえてきた。マージョリーかとも思ったが、彼女はさきほど風呂場に紙袋と下着を持って行けと指示したら離れでそのまま酒を飲み始めた。酒を飲み始めた彼女はしばらくは動かないから、今シャワーを浴びているのは間違いなく別の人間だ。
床を見ると、やけにボロボロになったブレザーやチャイナドレスなどが乱暴に脱ぎ捨てられて散乱している。
なぜにチャイナドレス?と二人は顔を見合わせる。
思えば、この下着のサイズの指定もおかしなものだった。マージョリーは「中学生用でいいわよ」と言っていた。そのサイズの下着を身につけ、かつ彼らと面識のある人物といったら一人しか思いつかなかった。
「…シャナちゃん?」
「まっさかぁ。なんでシャナちゃんがうちでシャワー浴びるんだよ」
啓作の即座の否定に、思い付きを言ってみた栄太もそうだよなぁと首を傾げる。シャナとマージョリーの関係がよいものではないというのは二人もよく知っていた。
ますます疑問だったが、後で教えてもらえばいいかととりあえず納得し、渡された紙袋と下着をその場に置いていそいそと退散することにした。

がちゃ。

背後で浴室の扉が開かれる音。一日中戦うための特訓を繰り返していた二人はつい条件反射的に振り返って身構えてしまい、
「━━━あ」
こちらを見て呆然とするシャナの姿を前に、死を覚悟した。

 ‡ ‡ ‡

「━━━あ」
脱衣所には、佐藤と田中がいた。こうやって顔を見るのは何年ぶりだろうか。懐かしさがこみ上げてきて、目尻が熱くなる。
久しぶりに会う友人たちに思わず声をかけようとして、ふと、二人が顔面蒼白になって戦慄の表情に固まっていることに気づいた。
なぜかと思考を巡らせ、それがシャナの姿をした僕の裸を見てしまったからだという答えに行き着く。
たしかに、シャナの着替えを見てしまった僕はタコ殴りにされたことが何度もある(誓って言うが、故意に覗いたわけではない)。怒りに燃えたシャナに贄殿遮那を鼻先に突きつけられたことなど数知れない。二人が恐怖に怯えるのは当然だ。もちろん僕はそんなことはしないが。
無言の僕がよほど恐ろしいのか、二人は彫像のように動かない。寿命を減らすのは気の毒なので、なるべく恐怖を与えないようにゆっくりと後ずさりして浴室へと戻る。
扉を半分ほど閉めて、その隙間から顔を出し、
「あの、できれば少しの間出ててもらえるとありがたいんだけど…」
僕の頼みに二人は首が外れるのではと思うほど頭を上下に揺らし、ドタドタとどこかへ走り去っていった。シャナがどう思われているのかがよくわかって、僕は苦笑した。
脱衣所に出てみると、二人が置いていった大小二つの紙袋が目に入った。これがマージョリーさんの言っていた着替えだろう。ありがたい。
チャイナドレスはもう修繕の仕様もないほどにボロボロだし、もし修繕できたとしてもできれば着たくなかった。代わりの服が手に入るのは大助かりだ。
小さい方の紙袋を拾ってみると、それには買ったばかりの女の子用のショーツやキャミソールが入っていた。佐藤の家に女の子用の下着が常備されているわけはなく、基本的にめんどくさがり屋のマージョリーさんが買ってくるはずもない。とすると…
「…二人には悪いことをしちゃったかな」
きっとマージョリーさんに買って来いと言われたのだろう。男二人で女の子用の下着を買わされる羽目になった二人の心境は想像もつかないが、おそらくは多大な精神的被害を受けたに違いない。
後でお礼を言っておかなくちゃ…。
ビニール袋を破ってショーツを取り出す。「12~15歳用」と書かれたパッケージには苦笑いをするしかなかった。
片足を入れて、もう一方の足も入れて、引き上げる。簡単な動作なのに、生地が小さいからかとても穿きにくい。つけてみると、どうも面積が少なくて心細い。ゴムがきゅっと締め付けてくるのに違和感を感じて、姿見の前で何度も位置を整える。


「そうしていると、本物の少女のようだな」
「うぐっ!?」
テイレシアスの容赦のない突っ込みが心に突き刺さる。自尊心とかそういったものをざっくりと抉られた気がした。
ショーツを整えるのをやめ、さっさとキャミソールを頭からかぶる。生地がだいぶ薄い。夏とは言え、これでは風邪を引くのではないだろうか。
「前後ろ逆だぞ」
「…わ、わかってるよ!」
す、少し手間取ったが、無事に下着類は攻略した。これから延々とこれを繰り返すことになるのかと思うと頭が痛くなったが、精神衛生を考えてこれ以上は考えないことにした。後回し後回し!
「次はこっちか…。ずいぶん大きいなぁ」
無地の紙袋を持ち上げる。服にしてはかなり重みがある。生地が多いのだろうか。ガサガサと中を漁り、袖の部分を持ってよいしょと引っ張り上げる。
………
……

しばしの思考停止。無言でそのどこかで見たような服を袋の中に戻して目頭をぐいぐいと揉む。きっと疲れているんだろう。うん、きっとそうだ。ソウニチガイナイヨ、ハハハハハ。
もう一度、今度はえいやっと一気に引っ張り上げて目の前に掲げる。
「……」
どこかで見たような紺色の給仕服の上に、やっぱりどこかで見たような白いフリフリのエプロン。袋の底には、白いフリフリのヘッドドレスまである。
紛れもなく、『万条の仕手』ヴィルヘルミナさんの普段着だった。なんでこの服が、このサイズで、ここにあるんだ…。
ってか、マージョリーさん、僕にこれを着ろと!?
「…ねえ、テイレシアス、服の贋作を作ってくれない?」
「残念だが、そんな力は残されていない」
無情な返事に、僕はがっくりとうな垂れるしかなかった。

 ‡ ‡ ‡

「動きにくいなぁ…」
友人の家の廊下をフリフリの給仕服を着て歩くという奇妙な体験をしながら釈然としない面持ちで呟く。僕に非はないのに、なぜだか凄く悪いことをしている気になってしまう。
この服は、シンプルなデザインではあるが、ロングスカートが歩みを邪魔してとても歩きにくい。一歩一歩大きく踏み出さないと足をもつれさせて転んでしまいそうだ。ヴィルヘルミナさんはよくこれで戦いまでこなせるな、と感心してしまう。
唯一の救いは、寸法がシャナの体に完全に合っているということか。
それにしても、なぜここにヴィルヘルミナさんの服があるのだろうか?そういえば、ヴィルヘルミナさんがこの地に来た理由は『探耽求究』ダンタリオンによってめちゃくちゃにされてしまったこの御崎市の事後処理のためだったはずだ。時期的には、もうこの地にヴィルヘルミナさんが訪れていてもおかしくはない。ここへ寄って行ったのだろうか?ヴィルヘルミナさんとマージョリーさんは仲がいいと聞いたことがあるし、もともとヴィルヘルミナさんに事後処理を要請したのもマージョリーさんだったはずだから、そう考えても不思議はない。
でも、なんのためにシャナにぴったりのサイズの給仕服をここに置いていったのか?もしかしたら、お揃いの服をシャナに着てもらいたくて持ってきたはいいけど恥ずかしくなってマージョリーさんに預けたのかもしれない。
そこまで考えて、あのヴィルヘルミナさんの鉄面皮という表現がぴったりの無表情な顔が思い浮かぶ。
必要なもの、不必要なものを冷静に取捨選択し、かつて僕という零時迷子を宿したミステスをも破壊しようともした彼女が、そんな可愛げのあることをするだろうか?
顔を赤くしてマージョリーさんに給仕服を押し付けるヴィルヘルミナさんの姿を想像しようとして失敗する。
「あはは、まさかねぇ」

「どうした、何の話だ?」
胸の前で僕の歩調に合わせてゆらゆらと左右に振り子のように揺れるテイレシアスが不思議そうな声を上げる。アラストールやテイレシアスはこんなに揺らされても酔ったりしないのだろうか?人間じゃないから酔わないのかもしれないが、あまり揺らすと気の毒なのでなるべく揺らさないように歩くことにした。
「ちょっとヴィルヘルミナさんのことを思い出してね。テイレシアスはヴィルヘルミナさんのこと知ってる?」
「『万条の仕手』のことか。ここにはあの大戦の猛者までいるのか」
どうやら知っているらしい。当然なのかもしれないが。『大戦(おおいくさ)』と呼ばれる、西暦1500年ごろに起こった紅世の王とフレイムヘイズの戦争で、ヴィルヘルミナさんは物凄い活躍をしたらしい。きっと僕の想像以上の有名人なのだろう。そんな人に鍛えてもらったことがあるのかと思うと、ちょっと誇らしくなってくる。
ふと、テイレシアスはアラストールのことも知っているのかと疑問に思った。紅世において、アラストールは『神』の役割を担っているらしい。趣味に生きているようなテイレシアスでも知っているのだろうか。そう思って僕がアラストールのことを聞くと、
「ああ、あの頑固ジジイか」
なんてのたまった。その声は珍しくくもっている。今のテイレシアスに顔があったら、きっと苦虫を噛み潰したような表情になっているだろう。どうやら、面識があるようだ。
「アラストールと何かあったの?」
「…あの頑固ジジイとは揉めたことが何度もあってな…」
一度間を置くと、テイレシアスは淡々と語り始めた。

 ‡ ‡ ‡

「『贋作師』?」
坂井家の自室で、坂井悠二がベッドに腰を下ろしていた。その隣には枕の上に丁寧に置かれたコキュートスがある。シャナが風呂に入っている間は二人はいつもこうして過ごしている。
アラストールが唐突に告げた紅世の王の名前に、坂井悠二は目を丸くした。なんでも、今日の戦闘の直後にその紅世の王らしき気配を感じたらしい。その名前を口にするアラストールの声は、どこか苦々しげな様子だった。てっきり厄介な敵なのかと思い冷や汗をかいたが、
「いや、一応はフレイムヘイズ側だ」
というアラストールの答えで安堵に胸を撫で下ろす。しかし、一応、というのが引っ掛かる。
「“一応”ってどういうことだよ、アラストール?」
「うむ…。あやつはこれまで数人と契約を結んだことがあるが、どれもすぐに破棄してしまったのだ。あやつの能力の扱いにくさ故にな。あやつの固有能力は『贋作』。強力な力を有してはいない代わりに、契約したフレイムヘイズが見た宝具を相応の存在の力を消費して再現することができる。と言っても、フレイムヘイズはあくまで『贋作師』の能力の一部を使えるだけだが。高度で精緻な宝具は創れない」
「へー。それって物凄いことなんじゃ…あ!」
一度見たものは宝具でさえも再現して作り出すことができるという。通常の武器や兵器を使っても大したダメージを与えられない紅世の徒や王を相手に戦うのなら、それは反則なくらいの強みなのではないか。敵の能力や特性に合わせて宝具を選択できるというのはまさに破格の能力だ。そこまで考えたところで、悠二は声を上げて手を叩いた。
「そんなにたくさんの宝具を見たことのある人間は━━━」
「そうだ。多くの宝具をその目で見たことのある人間などそうそういるはずもない。宝具とは、紅世の住人にとっては切り札のようなものだからな」
それでようやく、契約をしてもすぐにそれが破棄されたことの理由がわかった。『贋作』の能力を十全に発揮するには、宝具、それも戦闘に使用できるものを多くその目で見たことがあるという前提が必要となってくる。つまり、『贋作師』のフレイムヘイズには“経験値”が求められる。たしかにそれは扱いにくい。宝具を見たことの無い契約者なら戦闘をこなすことすら難しいだろう。多くの戦いを経て宝具の選択肢を増やしていけば強力なフレイムヘイズとなれるのだろうが、徒や王への復讐心に燃える人間にそれを待つ忍耐力があるのかどうかは言うまでもない。結果として、契約は破棄されてしまうわけだ。
合点がいったところで、悠二はアラストールが苦々しげにその王の名を言ったことを思い出した。
「もしかして、その『贋作師』と何かあった?」
「うむ…。あやつには散々手を焼かされたことがあるのだ」
紅世で『断罪』を司る『天壌の劫火』に手を焼かせたことがある紅世の王がいた。そのことに悠二は目を見張った。どのような凶暴な王だったのかと。しかし、
「あやつは他人の宝具の贋作を造りまくって、何度も世界を混乱させたことがあるのだ。宝具とはその名の通り“宝”だ。無闇に贋物を造ることが許されるはずがない。奴が騒動を起こすたびに我と激しい口論になった。あやつは『これは芸術だ、宝具が増えることはいいことだ』の一点張りでな…」
言葉尻を言い澱ませてため息を吐いたアラストールに、悠二は思わずガクリと姿勢を崩す。紅蓮に燃える巨躯を持つ、まさに魔神と言うべきアラストールが激しく口論するさまを想像して思わず吹き出しそうになる。その『贋作師』の性格がだんだんとわかってきたような気がした。
「とどのつまり、偏屈だったんだね」
「まったくだ」
アラストールの疲れたような声に、悠二は苦笑した。

 ‡ ‡ ‡

「…というわけだ。あの頑固ジジイ、『宝具は宝だ。無闇に贋物を作っていいはずがない』の一点張りでな。宝が増えることの何が悪いというのやら」
長い話を終えたテイレシアスがふんと鼻を鳴らす。
間違いなくテイレシアスが悪いと思うのだが、それを言うと『如何に贋作が素晴らしいか』という講義が始まりそうなので、あははと苦笑してやりすごす。アラストールもだいぶ苦労しただろうなぁ…。
そうこうしているうちに、マージョリーさんの待つ離れの扉の前に着いた。窓の外を見ると、夕日は半分ほど地平線にその身を隠し、空は深い濃紺に染まりつつある。長かった一日ももう終わるのかと、僕は感慨深げに外を眺めていた。
いろいろなことがあった。シャナの姿になり、フレイムヘイズとして戦い、『白銀の討ち手』として辛くも勝利した。その後は浴室で…いや、ここからは思い出さないことにしよう。

『マージョリーさん!どうか穏便に事が済むようにシャナちゃんを説得してください!』
『俺たちまだ死にたくありません!』

はたと、離れの中から佐藤と田中の声が聴こえた。かなり焦っているようだ。何事かと思い、ドアを開けて中に足を踏み入れる。途端に、バーカウンターに座るマージョリーさんに必死に嘆願していた二人が悲鳴を上げてマージョリーさんの背後に回りこむ。
「ごごごめんシャナちゃん!わざとじゃないんだ!!」
「そう、あれは故意にやったわけじゃないんだ!!」
呆気にとられる僕に、マージョリーさんはくつくつと忍び笑いを向けている。どうやら、マージョリーさんは僕がシャナではなく坂井悠二であることを二人に教えてないらしい。僕もその方が助かる。なるべくなら、僕が坂井悠二であることは言わないでおきたい。二人はいい奴だから、きっと心から僕の境遇を悲しんでくれるだろう。だからこそ、言わないでおきたかった。
「別に怒ってないよ。気にしないで」
二人に笑顔を向ける。これは本心だった。男同士で裸を見られても大して恥ずかしくないし。
今度は二人が呆気にとられる。目が飛び出すのではないかと思うくらい目を見開いて、二人で顔を見合わせる。その様子があまりに滑稽なので、思わずクスクスと笑ってしまった。
「お二人さん、その嬢ちゃんは『炎髪灼眼の討ち手』じゃないぜ」
マルコシアスが大笑いしながら二人に告げる。目を点にして混乱する二人に、ついに我慢の限界になったマージョリーさんがスラリとした美脚をバタつかせて笑い転げる。もしかしたら、僕のために黙っていたのではなく、二人の反応を見て楽しむためだったのかもしれない…。
とりあえず二人に近づき、下着を買ってきてくれたことのお礼をしておく。
「下着とか買ってきてくれてありがとう。なんか大変な目に遭わせちゃってゴメン」
はぁ、と心ここにあらずといった感じで返事をする二人。なんとか僕がシャナじゃないと理解できてきたみたいだ。
「じゃあ…君は誰?」
「え」
し、しまった…!考えてなかった!!
なんと言えばいいのだろう。こんな時こそ頭を働かせて妙案を導き出すのだ、坂井悠二!
………
……

だめだ思いつかない!
だらだらと汗が流れる。えーと、その、と言いよどみながら何かいいアイデアはないかときょろきょろと視線を彷徨わせると、やれやれと呆れ顔のマージョリーさんと目が合った。
「お願いします助けてくださいお願いします」という願いをこれでもかと込めた視線を向けると、マージョリーさんは小さく息を吐いて二人に振り返り、

「この娘は“サユ”よ。ほら、挨拶しなさい、サユ」

と一息にまくし立てた。お膳立てしてやったんだから早くしなさいという視線に、僕は咄嗟に頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします。サユです」
深々と頭を下げたところで、自分がどんどん元の『坂井悠二』から離れていっているような気がして激しく後悔した。まずい、体が女の子になってから仕草も女の子化してきている…。
頭を上げると、一応納得した様子の二人が赤い顔で気まずそうにぎこちない笑いを浮かべていた。初対面の女の子に情けない姿を見せてしまったと言わんばかりのわかりやすい表情だった。
「えっと、よろしくサユちゃん」
「にしても、シャナちゃんとそっくりだね」
いきなり核心を突く質問とはさすが佐藤。変に鋭いところがある。こんな時はすべてが許される切り札を使うしかない。
「仕様です!」
ぽかんとする二人。当然の反応だろうが、今のところいい言い訳はこれしか思いつかない。後で考えておこう。
それにしても、なんでマージョリーさんは僕の名前を“サユ”にしたんだろうか。
もしかして、『坂井悠二→さかいゆうじ→さ  ゆ  →さゆ→サユ』!?
実に単純な命名方式が頭に浮かんで、マージョリーさんをじとっとした視線で見つめる。マージョリーさんが手をプラプラと振り、いいじゃないの考えてあげただけありがたいと思いなさいという視線を返してくる。
もう少しひねってくれてもよかったと思う。


こうして、僕の“サユ”としての日々が始まった。



 ‡ ‡ ‡

この手にある丸みを帯びたグラスになみなみと注がれた液体を呆然と眺める。透明感のある薄紫色の液体━━━━ワインからは、芳醇な葡萄の香りが漂ってくる。
「あの…これを飲めと?」
ひくひくと頬を引き攣らせる。隣では、マージョリーさんが僕のグラスより一回りは大きなグラスに注がれたワインをがぶがぶと飲み干している。そのスタイルのいい細い体のどこに入っているのかと不思議に思ってしまうほどの飲みっぷりだった。
今日は佐藤家に泊まらせてもらうことになったのだが、夕食の代わりに出てきたのはチーズやピーナッツなどの簡単なおつまみと大量のワインボトルだった。なんでも、マージョリーさんは毎晩のようにこんな生活を繰り返しているらしく、佐藤と田中も何度も付き合わされているんだとか。部屋の隅に置かれた空のオーク製のワイン樽は一晩で飲み干してしまったものの残骸というから恐ろしい。
肝臓が壊死を超えて進化しているんじゃないかと思えるくらいかっぱかっぱとワインを胃に流し込み始める三人を横目に、僕はワインに映る自分の引き攣った顔を眺めることしかできなかった。自慢ではないが、僕はアルコールにはとことん弱い。チューハイ一缶でひっくり返った苦い経験が頭をよぎり、頬を汗が伝い落ちる。
「そうよ、飲むのよ。あんたのせいで今日は散々な目に遭ったんだから、晩酌くらい付き合いなさいよ」
「ひゃーっひゃっひゃっひゃっ!こうなったら覚悟を決めるしかねーぜ、嬢ちゃん!」
マージョリーさんの据わった目とマルコシアスの追い討ちにたじろぐ。
この体は僕の体ではないので僕の経験は当てはまらないだろうが…そもそもこの華奢な体躯では強い弱い以前にお酒が飲めるのかどうかすら不安だ。それは佐藤と田中にもわかるのか、グラスのワインを飲み干した佐藤が笑いながら、
「マージョリーさん、さすがにサユちゃんは飲めないんじゃないですか?未成年だし」
と赤くなった顔でフォローしてくれる。ありがとう佐藤。
「そうそう。オレンジジュースならありますし、無理させて飲ませるとフレイムヘイズでも体壊しちゃいますよ。未成年なんだから」
上に同じく、ワインを呷りながらフォローしてくれる田中。感謝するよ田中。だけど、お前らも未成年だろ!!
しかし、二人の言などマージョリーさんは意に介す様子も見せず首を振る。
「フレイムヘイズなんだから、酒くらい飲めるわよ。ほら、ぐいーっといきなさい、ぐいーっと」
などと無茶苦茶なことを言いながら再びグラスいっぱいに注いだワインを呷る。見れば、彼女の前に置かれたワイングラスはすでに空と化していた。
サユとして二人と初めて顔合わせした後、二人には僕が新参のフレイムヘイズであることを告げた。二人はある程度予想していたようで、それほど驚かずに受け入れてくれた。テイレシアスのことも紹介しておいた。ちなみにテイレシアスは今何をしてるのかというと、
「おい、もう少しワインをくれ」
「はいはい、わかったよ」
バーカウンターの上に置かれたペンダントの上に、指で掬ったワインを一滴垂らす。ゆっくりゆっくりと目には見えない速度でワインがペンダントの宝石に染み込んでいく。
「…その状態でも飲めるんだね」
「飲もうと思えばな。しかし、この酒はなかなかに美味だな。お前も飲んだ方がいいぞ。この芳醇としていてそれでいて爽快な味わいは…」
ぺらぺらとえらく饒舌になって語りだすテイレシアスと、それに「おお、わかりますかテイレシアスさん!」と意気投合して共に語りだす佐藤と田中。みんな酔ってきているようだ。なんだかカオスと化してきている気がする。
フレイムヘイズとなった人間は肉体が強化されるのだし、もしかしたらアルコールにも強くなっているかもしれない。僕だけが取り残されても面倒なことを押し付けられそうだし、こうなったら覚悟を決めて飲むしかない。
「よし!」
短い掛け声をあげて、一気にワインを呷る。マージョリーさんがにんまりと破顔して頷き、二人も歓声を上げてパチパチと拍手をする。
舌の上にまろやかなワインが流れこみ、喉へと向かう。途端、強烈な味覚に舌が痺れる。たしかに芳醇でありながら爽快で清浄な味だった。これでもかと言うほど手間をかけられて醸造されたことが容易に想像がつく。きっとかなり美味しいワインなのだろう。

━━━お酒が飲める人にとっては。

「ッッッッ!!??」
頭蓋の中身が倍に膨れあがったかのような錯覚に打ちのめされ、声にならない悲鳴を上げる。喉が焼け付くように熱い。味覚が強烈過ぎて嗅覚も視覚も触覚も霞んでしまいそうだ。ああもうダメだこれ以上はqあwせdrftgyふじこlp……!!


「あちゃー。だからやめたほうがいいって言ったのに…」
「あーあ、ぶっ倒れちゃいましたよ」
「なによ、つまんないわねー」
「ひゃーひゃっひゃっひゃっ!飲みっぷりだけはなかなかだったぜ!」
「情けないぞ、我がフレイムヘイズ」
轟沈した僕の頭の上から落ちてくる呆れ声。反論したかったが、頭がガンガンと痛んでそれどころではなかった。フレイムヘイズになったからといってアルコールへの耐性は強くはならないようだ。そういえばシャナの体の成長は12歳で止まっていると聞いたような気がする。いくらなんでも12歳にお酒を飲ませちゃダメでしょ…。

 ‡ ‡ ‡

フライパンに料理酒をぶちまける。十分に熱せられた鉄製の大きなフライパンに炎が浮かび、中の豚バラ肉を包む。肉とチーズの焼ける芳ばしい香りが部屋の中に漂う。肉の表面がカリカリになったところで火を止めてあらかじめ用意しておいた大皿に盛り付けて出来上がりだ。
綺麗に装っておこうかとも考えたがどうせすぐになくなるのでそのまま持っていくことにした。皿を持って厨房から出ると、カウンターでマージョリーさんと佐藤と田中が目をキラキラと輝かせていた。皿の簡単な料理を見た三人が喝采を上げる。
「おお、うまそう!それなんて料理?」
「豚バラ肉のカマンベール焼きです。はい、どうぞ」
でん、とカウンターに皿を載せる。おつまみ用として冷蔵庫の中に放り込まれていた食材から作った有り合わせの料理だが、そもそもおつまみを料理するということをしていなかった三人にはこれがご馳走に見えるらしい。薄目の肉でカマンベールチーズを巻いて焼くだけなんだけどなぁ。

なぜ僕が三人のおつまみを料理する羽目になっているのかというと、酒が飲めないのなら何かおつまみでも作りなさいというマージョリーさんのお達しでだいぶ使われていない厨房に追いやられたからである。予想通り、面倒なことを押し付けられたわけだ。
肩を落とす僕の前の前で次々と料理が消えていく。まあ、作った料理で喜んでもらえるのはいいことだ。
「むほぉっ、うんめぇ!サユちゃん、将来いいお嫁さんになれるよ!」
「ハハハハハ、ソレハドウモ」
嬉しくない、ちっとも嬉しくないぞ田中。
ここにいてもやることはないので厨房に戻って使った食器類を洗うことにする。去り際にワインを一滴ペンダントに落とすのも忘れない。
「サユ、だんだんとその格好が板についてきたみたいだねぇ」
ハムスターのように頬を膨らませてモグモグと口を動かしながらマージョリーさんが嬉しくないことを言ってくる。給仕服を着て料理をしていれば嫌でもそう見えるのだろうが。
「そういえば、この服はヴィルヘルミナさんの服ですよね。なんでこれをマージョリーさんが?」
「ああ、それね。あいつ、ちびじゃりに着てほしかったみたいだけど恥ずかしくて渡せないからってここに置いていったのよ。ちょうどよかったわね」
顔を赤くしてマージョリーさんに給仕服を押し付けるヴィルヘルミナさんの姿を想像しようとして、やっぱり失敗する。ヴィルヘルミナさんにもそういう可愛いところがあるのか。意外だ。
再びワイングラスを呷りだしたマージョリーさんを尻目に、僕は厨房へと戻った。

 ‡ ‡ ‡

カウンターテーブルの上を一頻り片付けた後、テーブルに突っ伏してイビキをかいて寝ている三人にタオルケットを被せる。飲み始めてから4時間は経っただろう。空のワインボトルの山を眺めてぽりぽりと頬を掻く。この三人の胃はどうなっているんだろうか。
ペンダントを首にかけて庭に出る。夏の夜独特の蒸し暑さと涼しさが入り混じった風にしばし目を閉じて酔う。懐かしい、御崎市の夏の空気だ。
地面を叩いて一息に屋根の上に飛び上がり、段差の部分に腰を下ろす。空を見上げれば、満天の星空と見事な満月が夜空を彩っている。それを膝をかかえてぼうっと眺める。屋根の上は風が少し強かったけど、この給仕服は生地が多いから寒くはなかった。
「坂井悠二。俺はこれからお前のことをなんと呼べばいい?」
声を発したワインの匂いをさせるペンダントを手に取る。律儀に聞いてくれたテイレシアスに僕は微笑む。
「サユ、でいいよ。今日から僕の名前はサユだ」
「わかった。我がフレイムヘイズ、サユ」
短く静かな応答。でも、ぎこちなさはない。
この時間にはこの時間の『坂井悠二』がいる。後からやってきたのは僕の方なのだから、名前くらい変えるべきだ。だけど、慣れ親しんだ自分の名前を捨てるのはやはり辛いものがある。僕が僕でなくなってしまうような空虚感に苛まれて、僕は膝の間に顔をうずめた。
どうにかして、元の僕がいた時間に戻れないだろうか。僕が消えて涙を流すシャナを思い出して、どうしようもない切なさが込み上げてくる。
シャナともう一度会いたい。今なら胸を張って言える。僕はシャナのことが好きだ。ずっと一緒にいたい。ずっと一緒に背を預け合って戦いたい。━━━━だけど、もう遅い。僕が恋をしたシャナは、ここにはいない。
悔恨と慙愧に歯噛みする。どうしてあの時、という後悔ばかりが胸を締め付ける。

「━━━戻れるとしたら、お前はどうする?」

不意に、契約の際と同じ台詞が手元から聞こえた。その質問の意味がわからずにしばらく呆然とする。
「戻れる、って…まさか、元の時間に?」
ああ、という押し殺したような短い返答。停滞していた思考がだんだんと追いついてくる。
戻れる。元の時間に戻れる。シャナの元へ、戻れる。
胸のうちから湧き溢れてくる歓喜に、総身がガクガクと震える。顔をあげ、テイレシアスをぎゅっと握り締める。
「どうすればいい?教えてくれ、テイレシアス!」
元の時間に戻れるのなら、僕はなんでもしよう。どんな苦労も試練も厭わない。どんな犠牲も払ってみせる。フレイムヘイズとなったこの身は不老だ。やらなければならないことにどれほど長い時間がかかろうとも、戻れるのなら構わない。
テイレシアスはなぜか話すか否かと思案しているようだった。それほどに難しいことなのだろうか。
数秒して、テイレシアスが重い口を開く。
「お前の体を調べ直してわかった。俺たちがこの時間に飛ばされたのは、零時迷子の影響だ。消えかけのお前の中に、零時迷子の断片が混ざっていたらしい。時の事象に干渉し、所有者の存在の力を完全回復させる永久機関である零時迷子なら、断片だけでも俺たちをタイムスリップさせることが可能だろう」
零時迷子は僕の目の前で壊された。だが、そのカケラが僕にくっついてきたらしい。零時迷子がシャナの炎弾で破壊された様子を思い出す。零時迷子が炎に包まれ爆発する。そしてそのカケラが僕の消えかけの体に突き刺さった。
「そうか、あの時の…!」
僕の中に偶然混ざってしまった零時迷子のカケラの作用でこの時間に来てしまった。
原因がわかるなら、対処の仕方も自ずと見えてくる。要は、僕の中にある零時迷子のカケラを使って、元の時間に戻ればいいわけだ。来れたのだから、帰ることもできるはずだ。
突如射してきた一縷の光明に、思わず立ち上がって空を仰ぎ見る。
「テイレシアス、僕の中の零時迷子を使うにはどうすればいい?」
できるならば、今すぐにでも取り掛かろう。希望に打ち震える体は、目的を達するための手段さえわかればすぐに実行できるほど熱を帯びていた。理性で抑えておかなければ今にも走り出してしまいそうだ。
だが、テイレシアスの様子はおかしかった。まるで余命間もない病人にその事実を伝えなければならない医者のような、重苦しい雰囲気に満ちている。
とてつもなく嫌な予感がした。聞くな、聞いてはならないと直感が叫ぶ。だが、聞かなければ前には進めない。僕は息を飲んで、テイレシアスに先を続けるように視線で促す。
それが絶望の幕開けになるとは知らずに。

「━━━お前の中に、すでに零時迷子はない」

「……え?」
「俺たちをこの時間に飛ばした際、零時迷子は力を全て失って消失した。元の時間に戻るには“別の零時迷子”を使用しなければならない。つまり━━━━」
“別の零時迷子”…?
言いようのない悪寒が全身を貫く。問うてはならなかったのだ。聞くべきではなかったのだ。
「待って、待ってよ!それって━━━」
ガクガクと膝が震える。希望を絶望が塗りつぶしていく。そこへさらに追い討ちをかけるように、テイレシアスが一切の感情を欠いた声で告げる。
それはあまりにも残酷で、あまりにも過酷な試練━━━━



             「この時間の坂井悠二を殺し、零時迷子を奪うしかない」
 



美しい双眸から光が消える。精神(こころ)が砕け散り、四肢から力が抜け、絶望に忘我して屋根に膝をつく。手から滑り落ちたペンダントが屋根に当たって小さな金属音を立てた。

“自分殺し”をしなければ目的が達成されないと告げられたサユの、心が折れた瞬間だった。


 ‡ ‡ ‡


夏だというのに、空気が沈鬱に冷え切っているように重いものに感じた。
なんて、皮肉。大切な人のところへ帰るために、大切な人の大切なものを奪わなければならないなんて。自分を殺さなければならないなんて。
冗談じゃない、冗談じゃないぞ!
「坂井悠二を殺したら、未来の坂井悠二である僕も消える!このまま坂井悠二が僕と同じ末路を辿るまで待てば、結果的に元の時間に戻り、シャナと会える!」
「いいや。今日(こんにち)の戦闘も、『白銀の討ち手』の存在も、お前の記憶にはないはずだ。この時間は俺たちの時間とは繋がらない、枝分かれした“別の時間”だ。だから、この時間の坂井悠二を殺してもお前に影響は出ない。坂井悠二がお前と同じ末路を辿るという保証もない」
「……ッ!!」
僕の言葉は呆気なく否まれた。なんとかして反論しようと歯噛みして考えるが、導き出される答えはテイレシアスのものとまったく同じだった。焦りと動揺で全身から汗が噴き出す。
人工音声のような抑揚のないテイレシアスの声が頭の中で繰り返され、冷たい霜のように軋む心に染み通ってくる。
『この時間の坂井悠二を殺しても、お前に影響は出ない』
それはできない、やってはならないと理性が訴える。この時間の『坂井悠二』にも生きる権利がある。誰かを選び、その人と共に生きる権利がある。僕がそれを奪っていいはずがないと、必死に心に念じ、自分に言い聞かせる。
なのに、胸に沸き起こるのはシャナの笑顔だけだった。数年にわたりシャナと築き上げてきた記憶が、大切な思い出の数々が、胸のうちを支配していく。


“━━━今の僕なら、シャナを退けて坂井悠二から零時迷子を奪うことができる。”


いつのまにかシャナを倒すための戦術を考え始めようとしていた自分に、他でもない自分自身が怯えた。自分の冷静さが信じられなかった。
たしかに迷い、心は涙を流し葛藤しているのに、一切斟酌することなくそれとまったく同時進行で“いかに戦うか、いかに殺すか”を思考し始めている。
感情がどんなに拒否しようと、別のドライブが目的を達しようとシステムを稼動させ続ける。
勝手に頭の中で戦闘のシミュレーションが開始され、試行錯誤が繰り返されていく。大切な人を確実に行動不能にする算段が着々と滞りなく出来上がっていく。
数え切れないほど繰り返されたシミュレーションで、ついに手に握る銃が高速で飛翔するシャナを捉える。速やかに引き金を引き、放たれた銃弾が彼女の細い四肢を穿つ━━━━━━

「はは、は、あはははははは…」
ひどく乾いた、空虚な嘲笑が漏れる。それが何に対しての嘲りなのかは自分でもわからなかった。
僕は、なんなんだ?シャナを想いながら、シャナを傷つけて坂井悠二を殺そうと考えている僕は、いったいなんなんだ?僕という人間の精神構造は、正常なのだろうか?
底抜けに虚ろな喪失感に押し潰されそうになる。これは何を失った喪失感なのだろうかとしばらく自問した末、ああ、そうかと理解する。
━━━きっと、『感情』だ。悲しいとか、そういった『感情』を僕はなくしてしまったんだ。
何かが吹っ切れた気がした。汗も、気づかぬうちに溢れ出していた涙も、ピタリと止まった。
「…これからどうする?我がフレイムヘイズ」
黙然としていたテイレシアスが相変わらずの低い声で問う。足元に落ちているペンダントを枯れきった眼差しで一瞥する。
「…ああ、そうだね」
気づけば、夜空の星は黎明の青灰色に掻き消され始めていた。それは美しい景色のはずなのに、僕の目にはただの自然現象にしか映らなかった。
心はこんなに重いのに、体は驚くほど軽かった。
「僕は━━━」

 ‡ ‡ ‡

「…ん、ぬぁ~…」
窓から差し込んできた眩い朝日に、田中栄太がだらしない呻き声を上げながら目を醒ました。その気配につられたのか、隣で寝ていた佐藤栄太とマージョリーも苦しげに呻きながらゆっくりと上体を起こし始める。いつのまにか、全員の背にはタオルケットがかけられていた。
靄がかかったようにはっきりしない頭で状況を把握しようとして、途端に万力で締め付けられるような二日酔いの激痛に頭を襲われて顔を顰める。栄太も同じように顔を歪めて額を抑えている。マージョリーだけは、あふ、と健やかな欠伸を漏らして背伸びをしていた。
「いつも思うんですけど、姐さん、あんなに飲んでよく平気ですね」
ズキズキと刺すような痛みに堪える二人にマージョリーは「鍛え方が違うのよ」と平然と言い放つ。ふと周りを見渡し、この場に一人足りないことに気づいた。
「サユは?」
「嬢ちゃんなら、夜中に出てったぜ。そこの手紙を残してな」
マルコシアスの即答。紅世の王である彼は人間である契約者と違い、睡眠による休息を必要としない。
驚く少年二人をよそに、こうなることをある程度予想していたマージョリーは落ち着いてテーブルに置かれた手紙を手に取った。
あの坂井悠二のことだ。自分にこれ以上迷惑は掛けられないとこっそりと立ち去ったのだろう。
手紙の内容は、いかにも坂井悠二らしい内容だった。戦闘でマージョリーが悠二を何度も助けたこと、倒れた悠二を運んだこと、荒唐無稽とも言える話を信じたこと、世話を焼き、名前を与えたこと、それらに対する感謝の言葉がこれでもかというほど並べられていた。佐藤啓作への一宿一飯の恩や、恥を忍んで下着を買ってきた田中栄太への感謝の言葉も忘れられていない。おまけに、酒の飲みすぎはやめておくべきだ、という忠告まで添えられていて、マージョリーは思わず噴き出してしまった。外見はどんなに変わっても中身は変わらないな、と。
だが、文章の最後に何の脈絡もなく綴られていた短い言葉を見ると、マージョリーは途端に眉を顰めた。たった6文字のその言葉に冷淡で虚ろな様子が感じられ、しかしその正体に皆目見当がつかずに無性に不安を煽られる。
「姐さん、どうかしたんですか?」
二人が不思議そうに問うが、マージョリーの耳には入らなかった。何の推察も根拠もない。だが、長い年月を掛けて練磨された第六感が言い知れぬ不安に怯え、叫んでいた。何かが起きる、と。
その、手紙の最後に書かれていた言葉は


               ごめんなさい
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