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【白銀の討ち手】私は他の誰も愛さない【とむらいの鐘編】

 ←白銀の討ち手S(前編) →【灼眼のシャナ二次小説】アラモ砦の天使【白銀の討ち手】(途中)
この続きを書いていたとき、TSF支援図書館が消え、初代ノーパソも壊れ、続きも、アイデアメモも消えて、なにもかもやる気をなくしたのです。また思い出しながら、続きを書いていきたいと思います。




               ―――我らはどちらを望むのか―――
                ―――彼はどちらを選ぶのか―――




第0章 <イレギュラー>

『こんな、こんなことが…!』

 崩壊していく迷宮『ラビリントス』内に、その迷宮の主であり“そのもの”でもある紅世の王、『大擁炉』モレクの戦慄の悲鳴が響き渡った。そのか細い悲鳴は大破壊の騒音にかき消され、誰の耳にも届くことはない。唯一、虹色を纏った麗貌の青年騎士と恐るべき巨躯を持った鉄鱗の竜――――『虹の翼』メリヒムと『甲鉄竜』イルヤンカだけが、モレクの動揺とラビリントス内に響く轟音に只ならぬ異変を感じ取り、顔を見合わせた。

「どうした、モレク。この揺れは何だ?何が起きている?」

 地震のような腹の底を揺らす地響きに負けず、メリヒムが虚空に向かって大声で問う。しかし、返ってくるのはモレクの小さな悲鳴だけ。メリヒムはそれだけで、モレクがラビリントスを維持できなくなってきていることを察知した。この気弱で臆病な宰相がかつて自ら『難攻不落』と誇った自在法が破壊されようとしている。その結果ならばメリヒムもイルヤンカも予測できていた。『両翼』と呼ばれる『とむらいの鐘(トーテン・グロッケ)』の最強の戦士である彼らに匹敵する“最兇”のフレイムヘイズの二人にかかっては、やがてこのラビリントスも、モレクも、撃破されてしまうだろうと。元よりモレクもそのつもりで“彼女たち”を自らの肉と骨と血潮によって構成されるラビリントスに取り込んだのだ。しかし――――

「おかしい、あまりに早すぎる」

 イルヤンカが声を荒げた。その岩山のように険しい顔には珍しく困惑が浮かんでいる。メリヒムも一見無表情を装ってはいたが、内心は困惑しきっていた。そう、早すぎるのだ。ほんの数分前に、フレイムヘイズとの戦いの最中、切り札である『両翼』を消耗から避けようとモレクがラビリントスを発動して彼らをその内部に取り込み、フレイムヘイズから切り離したばかりだ。メリヒムが心踊る戦いを邪魔されて激怒し、怒りに任せて『虹光剣』を放ったのもついさっきのことだ。メリヒムもイルヤンカも、モレクの実力はよく理解している。如何に強力無比な力を持ったあのフレイムヘイズたちと言えど五分と経たずにこのラビリントスを突破できるとは考えられなかった。
 彼らが当惑に眉を顰める間も轟音は続いている。否、さらに大きくなっている。ラビリントス全体を地殻ごと揺るがすかのような大震動を引き連れて、迷宮を押し潰さんばかりの強烈な轟音が耳朶を叩きつける。この状況を明確な異常事態だと判断したイルヤンカが周囲の様相を把握しようと長い首を持ち上げて遠方を窺い、メリヒムが声に少しの焦りを浮かべて再度強く問いかける。

「モレク、応えろ!モレ―――」
「メリヒムッ!」

 イルヤンカの怒号とほとんど同時にメリヒムが驚異的な反射神経と脚力を持ってその場を大きく飛び退く。次の瞬間、激烈な余波を伴って“白銀”の巨大な壁がメリヒムのいた空間を横薙ぎにした。イルヤンカも見上げるほどのその壁は彼の鼻先を掠り、ラビリントスを構成する無数の分厚い壁をまるで麦歩のように軽々と薙ぎ倒し、爆煙を巻き上げながら破壊し尽くしてゆく。

「な―――なんだ、あれは!?」

 反撃を叩き込もうとサーベルを高く振りかぶっていたメリヒムが、過ぎ去っていく壁を見て目を見開いて叫んだ。無理もない。“壁”に見えていたそれはイルヤンカの全長にも比肩するほどに巨大な――――“槍”の先端だったのだ。
 しかも、彼らはその槍の形状に見覚えがあった。色彩は違うが、その形状は援軍と称してやって来た胡散臭い奴ら――――『仮装舞踏会(パル・マスケ)』の幹部が一人、『千変』シュドナイが見せ付けるようにその肩に担いでいた剛槍そのものであった。

「あの槍がなぜここに?…いや、違うな」

 狡猾なメリヒムは一目で看破した。その槍は、色が違うだけではない。発せられる宝具としての存在感が“本物”より弱い。槍自体を構成しているのも、物質ではなく存在の力だった。あれは本物の槍を存在の力を使って再現しているに過ぎない。だが、そんな能力を“彼女”は持っていただろうか?

「いいや、これは女丈夫の仕業でも舞踏姫の仕業でもない」

 イルヤンカが暗黒の粉塵が舞う周囲を油断なく見据えながら、メリヒムの内心の疑問に応える。メリヒムも同じ答えに行き着いて頷いた。新たな、そして厄介な敵の登場に、二人の表情が引き締まる。

(――――主、おさらばです)

 銀色の破壊の奔流に蹂躙され、ついに再生が追いつかなくなったラビリントスが瓦解し、灰燼と化していく。それは同時にモレクの最期も意味していた。忠勇なる同士の遂げる死に様から一刻も目を逸らすことなく、メリヒムとイルヤンカは黙してしかとその最期を目に焼き付ける。

(あなたも、どうか生き残ってください、チェル――――)

 モレクは、その言葉を最後まで告げることはできなかった。空間に亀裂が走る。ラビリントスが軋み、悲鳴を上げて粉々に砕け散っていく。燃え尽きる蝋燭のように最後に薄黄色の明滅を放つと、かつて誰からも怖れられた難攻不落の迷宮は音も立てずに完全に消滅した。それはあまりにも呆気ない、『大擁炉』モレクの最期だった。

「貴公の死、無駄にはせんぞ」

 呟き、一瞬だけ目を閉じて仲間を弔う。イルヤンカもそれに続いた。ふと、チェルノボーグがモレクの死を知ればどれだけ嘆き悲しむだろうかと、イルヤンカは気を重くした。彼は二人がお互いに惹かれていたことに気付いていた。どこからか、チェルノボーグの慟哭が聴こえた気がした。悲しい女の悲鳴だった。

「ああ、無駄にはせんとも。絶対にな……!」

 二人がカッと目を見開くのと同時に、一陣の突風が吹き荒れた。視界を遮っていた粉塵が二人の気迫に気圧されたかのように残さず吹き飛ばされる。その視界の遥か先、宙空で動きを止めた巨槍の元で、三色の炎が咲き誇っていた。

囂々と燃え盛る紅蓮、静かに燃え立つ桜色、――――そして、氷のように鮮烈に輝く白銀。

 神々しいばかりの強烈な美しさで闇をそれぞれの色に染め上げるそれらは、三人の女だった。否、一人は女と呼ぶにはあまりに幼い少女だ。女たちの胸元にも及ばない背丈をした発育途中の矮躯からは、しかし、女たちに比肩するほどの存在感を放って仁王立ちしている。その姿は、まるで勝利を象徴して屹立する記念碑のようだ。イルヤンカも、いつもは紅蓮の女戦士に目を奪われているはずのメリヒムでさえも、その少女を凝視した。不意に、メリヒムの端正な顔に鋭い笑みが浮かんだ。得難い宰相を討滅した敵が、彼を倒すに相応しい強者であったと悟ったからだ。メリヒムが剣帯からサーベルを抜き放つ。空を切り裂く音を立て、鋭い切っ先が白銀の少女へ向けられる。

「初見のフレイムヘイズよ、我らが盟友を倒せし猛者よ!問おう、貴様の名を!」

 巨人の恫喝に匹敵する問い掛け。その凄絶な眼光を真っ向から受け止めて、しかし少し足りとも怖じけずに白銀の少女が揺るぎなく応える。

「我が名は――――」



第一章 <日常>



 大きな家々の立ち並ぶ、御崎市東側の旧住宅地。そのほぼ中心部に、他より遥かに広大な庭園と立派な屋敷を持つ旧家『佐藤家』はある。高い石塀に囲まれた敷地は優にテニスコート5つ分はあるだろう。内部に広がる遊園は夏独特の緑鮮やかな木々や草花に彩られ、泳ぎたくなるほどに大きな池では丸々と肥えた鯉たちがその見事な色彩を天に見せつけるように輝かせている。それらの中心には巨大かつ豪壮な日本風の屋敷が堂々と鎮座する。時折流れる夏の風が葉をざわめかせ、柔らかく土を巻き上げながら手入れの行き届いた上質の芝生を撫でる。ふと、一箇所、遊園の隅の鬱蒼とした茂みの中に風がまったく吹かない空間があった。否、風が“その空間だけを避けている”。それは極小の『封絶』だった。外部との因果を断絶させて因果孤立空間を作り、外部から隔離・隠蔽をする一種のバリアだ。大人数人がようやく立てるほどのその小さな封絶内で、銀色の光が呼吸するかのように二度三度輝いたかと思うと―――


どかん!


 盛大に爆発した。封絶内の草木が根元から吹き飛び、地面が爆撃を受けたように抉れる。封絶を形成する壁がビリビリと振動し、もうもうと巻き起こった土煙が狭い空間を灰色で満たす。その爆発の中心部からは少女が激しく咳き込む声。

「喜べ、これでちょうど10回目の失敗だ」

 同じく中心部から、地鳴りのように低いからかい声が聴こえた。少女がヒステリックに「うるさいうるさいうるさい!」と抗議する。

「お前も懲りない奴だな。言っただろう、零時迷子のような高度な宝具の贋作はフレイムヘイズにはできない、と。贋作に特化した〝徒〟である俺でなければ無理だ」
「そんなこと、やってみなきゃわからないじゃないか」
「やってみてこの有り様なんだろう」

 少女が口を尖らせたままぐうと言葉を詰まらせた。図星だったようだ。少女はしばらく反論の言葉を捜していたが、大きな溜息を吐いてすぐに諦めた。ぱちん、と指を弾く軽い音色が響く。音色が伝播して草木や庭園の残骸に届くやいなや、それらは白銀の飛沫と化して一斉に宙を舞い、元の丁寧に整えられた草木と庭園の姿へと戻っていく。立ち込めていた粉塵が急速に静まっていき、少女の容貌がはっきりとする。柔らかに風を孕む純白の長髪と、夏の雲海のような白く美しい双眸。それらにまったく劣らない、見事な造形をした見目麗しい容姿。
 小さく溜息をついて憂いを含んだ表情をする少女は、見る者全てを陶酔させてしまいそうになるほどの可憐な美しい少女だった。――――無論、中身が少年であることを除けば、である。
 少女はほんの一ヶ月前までは、坂井悠二という少年であった。かつて愛する少女と共に故郷を離れ、彼の内にある唯一無二の宝具『零時迷子』を奪わんとする追っ手に敗れて命を落とした。そこに偶然現れた紅世の王と契約し、新しい体を手に入れた。しかし、何の因果かその体は愛した少女と瓜二つだった。さらに、彼が再び生を受けた世界は時間軸の異なる過去の故郷であった。それから人々を襲う紅世の王と死闘を演じ、マージョリーからサユという新しい名を与えられ、過去の自分とシャナと一戦交えて危うく死に掛けるなどの紆余曲折を経て、今ここにいるわけである。

(我ながら、わけのわからない人生だなぁ)

 思わずほろりと流れた涙を華奢な指で拭う。

「サユ、そろそろ『弔詞の詠み手』が帰ってくる頃合だろう」

 胸元の、純白の宝石が埋め込まれた卵形のペンダントから再び地鳴りのような低い声が響いた。その声の主こそ、消滅しかけの坂井悠二と契約し、少女の姿に作り変えた張本人、『贋作師』テイレシアスだ。剛毅果断な性格をしているが如何せん自由人すぎるところが欠点の、必要以上に人間じみた紅世の王である。

「しまった、集中し過ぎた!」

 サユと呼ばれた少女――――テイレシアスのフレイムヘイズ、『白銀の討ち手』サユが、慌てて封絶を解いて茂みから飛び出る。慌てていたので、茂みの外に人がいるかどうかの確認はしていなかった。

「今ここで何か光って――――んなっ、サユちゃん!?」
「えっ――むぎゅ!?」
「あ、」

 目の前のすらりとした少年の胸板に顔面から衝突する。華奢な体躯をした少年はその衝撃を受け止めきれずに蹈鞴を踏んで勢い良く後ずさる。そして、もう一人の大柄な少年が支える暇もないままサユごと池の中に飛び込んだ。サユの燃える長髪がじゅうと音を立てて水を蒸発させた。突然の招かれざる来訪者たちに鯉たちが逃げ惑い、ばしゃばしゃと水面に水しぶきを立てる。
先に水面から顔を出したのはサユだった。その双眸も長髪も冷却されていつもの輝く黒色に戻っている。

「ぷはぁっ!す、すいません啓作さん!」

 ひりひりと痛む鼻を我慢して反射的に頭を下げる。しかし、不注意で池に突き落としてしまった少年――――この家の実質的な主であり、坂井悠二だった頃の友人でもある佐藤啓作の姿はない。代わりに返ってきたのは同じく友人の田中栄太の苦笑だった。

「啓作なら、サユちゃんの足元に沈んでるよ」

 へ?と呆けた声を漏らして目を真ん丸くするサユ。そのか細い足の下にはピクリとも動かない啓作が水死体のように沈んでいた。サユが悲鳴をあげて飛び退く。その微笑ましい仕草は、憧れの女性がいる栄太にも心臓の震えを感じさせた。そんな自分への戒めのために栄太はサユから見られないように自身の鍛えられた二の腕を強くひねる。そんな栄太の内心の葛藤など露とて知らず、サユは慌てふためいた様子で自分が乗っかっていた啓作を引きずり上げる。潜水艦が排水して浮上するように口から大量の水を吐いて、普段ならばとりあえず“美”をつけてもいい容姿をした少年、啓作が水藻まみれのまま水中から姿を現した。

「げほげほげほ!河の向こう岸で悠二が手を振ってやがった!」
「……まだ死んでないよ。一応」

 咳き込む啓作に小声で突っ込みを入れて、自分より頭一つ分は背の高い啓作を軽々と陸へ持ち上げる。フレイムヘイズとなってから手に入れた怪力のおかげだ。まだ咳き込む啓作の背を擦りながら再び頭を下げる。

「ごめんなさい、啓太さん。ちゃんと前を見てなくて…」
「げほ!き、気にしないでいいよサユちゃん。今日は暑いから、ちょうど水浴びがしたいと思ってたんだ」

 青ざめた顔をしつつも笑顔を返してくる。そんな友人の優しさに、サユの心が暖かさで満たされた。啓作にも栄太にも、自分が坂井悠二であったということは教えていない。自分は、恩人の勧めで啓作の家に住まわせてもらっているサユという名のフレイムヘイズということになっている。自分が望まぬ末路を遂げた坂井悠二の成れの果てだとは知れば、二人はきっと心を痛め、悲しむ。強くなろうと懸命に努力している二人の心に闇を落とすことはしたくなかった。その方針はこれからも変わることはないだろう。

「それにしてもびしょ濡れだなぁ。もう夏も終わる頃だし、急いで着替えないと風邪引いちまうぞ」

 栄太が顔を曇らせてサユの服を指差す。啓作も総身を水浸しにしていたが、サユの方が重症だった。三人が共通して尊敬する女性に“お仕置き”として普段着にすることを義務付けられた白いヘッドドレスと濃紺の給仕服―――要するにメイド服―――はすべての生地がたっぷりと水を吸水して至るところから大量の水滴を滴り落としていた(啓作と栄太は何に対してのお仕置きなのか教えられていない)。人間如雨露という例えがしっくりとくるその姿に、同じく水浸しの啓作さえも気の毒そうな視線を向ける。そんな二人の心遣いに、サユは爽やかな微笑を返す。

「心配いりません、すぐに乾きますから」

 その言葉を契機に、サユの総身を白銀の炎が包み込んだ。髪や衣服に染み込んでいた水が瞬く間に音を立てて蒸発する。驚嘆する二人が見守る中、纏っていた蒸気を上げて乾燥を終えたサユの姿が現われた。乱れてしまった長髪を繊細優美な手ではらりと背に払う。急しのぎで乾燥させたというのにその黒髪は艶々と滑らかな黒光りを見せる。稚気を孕んだ容姿が一瞬だけ大人びて見えて、そのアンバランスな美しさに啓作も栄太も思わず見蕩れてしまう。

「ボクの顔に何かついてます?」
「え!?い、いや、その、フレイムヘイズって便利だなって思ってさ!」
「そ、そうそう!俺たちにもできれば、啓作だって服を簡単に乾かせんのにな!」

 慌ててはぐらかす挙動不審な二人を見てサユが一瞬きょとんと首を傾げるが、すぐに元に戻る。どうやら深い詮索はしないようだ。啓作と栄太が顔を伏せてほっと安堵の息を吐いた。

(サユちゃんって、シャナちゃんみたいな貫禄がない代わりに無防備な可愛さがあるんだよなぁ。姐さんという憧れの人がいながら、俺って奴は…)
(オガちゃんにアタックされたってのに俺って男は何を考えて…)

 君に見惚れていました、などとは口が裂けても言えない。言ってしまえば釘宮ボイスがよく合いそうなツンデレ少女に恋してるどこぞの友人のようにロリコン扱いされそうだからだ。そんなことを考えているうちに、サユが物陰で何をしていたのかという疑問は消えていった。一方、サユは二人が内心でそんな反省をしていることなどまるで気付いていなかった。

(二人とも俯いちゃって、どうしたんだろう?もしかしてボクが隠れて零時迷子の贋作を作ってたことに気づかれた?封絶の精度がまだまだ甘いんだろうか…)

 などと見当違いも甚だしい思い込みをしてしまう始末である。坂井悠二だった頃から恋愛などの情事にはとことん疎い彼だったが、少女となってからその鈍さにさらに磨きがかかってきているようだった。サユの胸元で揺れるテイレシアスだけが三人の胸の内を理解して心中で苦笑を浮かべていた。
そんな未熟な三人が内心で思い思いの反省をしていると、

「そんなところにぼけっと突っ立って、何してんのよ」

「「姐さん、お帰りなさい!」」
「ま、マージョリーさん、お帰りなさい…ませ」

 突如響いた朗々とした女性の声に三人が振り返り、二人は軽く挨拶を、一人はエプロンの前で手を重ねて丁寧なお辞儀をした。そのぎこちないお辞儀に「よろしい」と頷きながら、頭上で燃える太陽に劣らない輝きを放つ女性、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーが肩から提げた大きな本を揺らしてずんずんと歩み寄ってくる。その姿はまさに『美女』という言葉を体現したものだ。非の打ち所のない豊満かつ引き締まったプロポーションに、凛とした目鼻立ちをした白人の成人女性。完璧な黄金比を成すスラリとした長身は世界のトップモデルすら軽く足蹴にするほどだ。白いタンクトップにデニムのジーンズ、艶やかな栗色のロングヘアーを後ろ頭で適当にまとめただけという完結粗野な格好だが、彼女にかかればそれすら見事なファッションと化している。そのボリュームのあるバストが歩みに合わせて薄いタンクトップの下で上下に揺れるのを目にして、三人の頬が赤く染まった。
思春期の“少年たち”の熱い視線など意にも介さず、マージョリーがいつもするように胸を張って三人の前に立った。背丈の関係から目の前に見事な柔肉の山嶺(さんれい)が迫るサユが、耳まで真っ赤にして目を逸らす。その様子を見て愉悦の笑みを浮かべたマージョリーが、サユの頭を美術品を扱うかのようにさわさわと優しく撫でる。

「サユ、女の子なんだからもっと可愛らしくお辞儀しなさい。まだまだぎこちないわよ?」

 『女の子』の部分を強調するマージョリーに、サユは複雑そうな顔をしてされるがままに頭を撫で回されている。マージョリーは彼女と同じく佐藤家に居候させてもらうことになったサユに事あるごとに女の子らしくすることを強制していた。それはつい一ヶ月前のサユとシャナとの戦いで迷惑をかけられた分のお返しであったのだが、もちろん啓作と英太には知らされていない。ふと、マージョリーの視線が三人の背後に向けられた。そこは先ほどサユが封絶内で大爆発を起こした場所だった。その視線に懐疑の色が浮かぶのを見て、サユは表情を凍りつかせながら先日のアラストールたちとの会話を思い出した。



「白銀の討ち手、そしてテイレシアス。天壌の劫火ではなく“天罰神”としてお前たちに命ずる。今後、如何なる理由があろうとも、零時迷子の贋作を作ることは許さん」
「……!」

 常よりもさらに低く険しいアラストールの言葉に気圧されて言葉を失う。瞠目してコキュートス―――アラストールの意志を表出させるペンダント型の神器―――から視線を上に上げる。そこには、ぎゅっと眉根を寄せて苦しそうな表情を浮かべるシャナがいた。ここはシャナが生活拠点にしているマンションの一室。シャナと坂井悠二との戦闘の後、傷が癒えたボクはシャナ、アラストール、そしてヴィルヘルミナさんに重要な話があると呼び出されていた。ボクの後ろには付き添いで来たマージョリーさんが腕を組んで壁にもたれ掛かっている。

「……サユ、お前が自分の世界に帰りたいと願う気持ちはよくわかる。でも、零時迷子が危険な宝具だってことはお前自身が一番よく知ってるはずよ」

 シャナが真っ直ぐな眼差しを向けてくる。その瞳に映るのはシャナと瓜二つの表情をしたボクの顔
その通りだった。零時迷子がどれほど厄介なものであるかはボク自身の命を持って体験している。アラストールの言うことも、シャナの言うことも、絶対的に正しかった。ボクはフレイムヘイズに成り立ての未熟者だし、そもそもテイレシアス自身が大規模、または超精密な宝具の贋作はフレイムヘイズには不可能だと言っている。これまでの宝具の贋作からそれなりに手応えは掴んでいたが、零時迷子を作られる自信はなかった。もし無理やりに零時迷子を贋作すれば、出来上がった失敗作を制御できなくなる可能性も否定はできない。その先がどうなるのかは誰にもわからないのだ。マージョリーさんも同意見なのだろう。目を瞑り、ボクたちの話にじっと耳を傾けている。

「零時迷子は未だ謎の多い宝具。時間移動すら可能にする永久機関。扱いを間違えば何が起こるかわからないのであります」
「一触即発」

 シャナの後ろに控えているヴィルヘルミナさんとその紅世の王ティアマト―の確とした忠告。見事に的を得ているその言にボクは抗弁する気も起きずに項垂れ、甘受する。その間も頭上からはヴィルヘルミナさんの射殺すような視線が降ってくる。突けば破裂しそうなピリピリとした空気がまとわりつき、息苦しさが喉輪を締め付ける。ヴィルヘルミナさんの機嫌がすこぶる悪く見えるのは、ボクが元坂井悠二であるということや、彼女と同じ給仕服を着ていることが原因でないことは明らかだ。結界を作ってシャナを誘い出し、戦い、危険に晒した。彼女にとってはシャナは教え子である以上に娘のような存在でもある。それを傷つけられれば怒るに決まっている。その上、厄介な宝具をもう一つ増やすかもしれないと来れば、本心ではこの場ですぐに絞め殺したいと思っているのかもしれない。

(…だけど…)

 ちら、とヴィルへルミナさんの表情を窺い見る。一見無表情に見えるが、表情ごとに眉の動きや唇の結び方に微妙な違いがある。長年の経験から、シャナ並とまではいかなくともある程度は彼女の感情を推測することができるようになっていた。そして、今の彼女の表情は、

(……不安……?)

 見間違いかと数度自分の目を疑ったが、そうではない。その朱色の瞳が、まるで死地に向かう友を制止するかのような悲哀と不安に満ちていたのだ。

「あの――」
「あいあい、わかったわかった。恐れ多い天罰神猊下に言われずとも、不可能なものは不可能だ。調べてみたが、零時迷子ほどの複雑怪奇な宝具ともなるとフレイムヘイズでは贋作は出来ん。俺自身に手によって、かつ膨大な存在の力がなければ創れないだろう。だが、俺はしばらくこのフレイムヘイズと共に在ると決めている。心配せずとも、しばらくは零時迷子の贋作は創らんよ」

 ボクの言を断ち切るようにテイレシアスが軽口で応える。出鼻をくじかれた格好になったのが恥ずかしくて、ボクは疑問を口に出すのをやめた。よく考えてみれば、ヴィルヘルミナさんがボクにそんな感情を向けることなどあるはずがない。彼女がボクに出会ったのはつい先日のことだし、彼女が「坂井悠二」と出会ったのもやはりつい最近のことだ。

(ヴィルヘルミナさんに願望の幻を見るなんてボクもまだまだだな)

 小さく頭を振って甘えを捨てると、シャナの双眸をハッキリと見返して笑顔を作る。シャナはボクのことを理解してくれている。ならば、ボクが意外に頑固者だということも理解しているだろう。事実、ボクの笑顔を見たシャナは少しの驚きと大きな呆れを含んだ表情を作っている。

「大丈夫。ボクが未熟だってことはボク自身がよくわかってる。時間を操る宝具は他にもあるかもしれないし、零時迷子の贋作はずっと先にするよ」
「贋作師、だからそういうことではなくでだな……」
「サユ、だからそういうことじゃなくて……」

 二人の呆れ声が重複してステレオになる。その様子がおもしろくて思わずくすりと笑ってしまった。それが火に油を注ぐことになり、シャナは顔を赤くして柳眉を逆立てる。それがおかしくて、ボクは再び笑う。首だけで振り返れば、苦笑を浮かべるマージョリーさんが小さくウインクを返してくれる。気づけば、部屋に充満していた重苦しい空気は消え失せていた。アラストールやヴィルヘルミナさんたちの危惧も、シャナの心配もよくわかる。それらはとてもありがたい。だけど、零時迷子の贋作を諦めたりはしない。代用出来る宝具の捜索と同時進行で修練を重ねて行くつもりだ。完璧な贋作は出来なくても、ほんの一度の使用に耐えきれる程度の精度なら可能かもしれない。それに、“切り札”もあることはあるのだ。不可能ではない。今まで積み重ねてきた贋作の鍛錬によって、コツ以上の、確信に近いものを得ていた。

(当分は隠れて練習だな。見つからないようにしないと)

 せっかく心配して言ってるのに、と口を尖らせるシャナをなだめながら、ボクは練習場所をどこにするかという算段を考え始めていた。その時には、すでにヴィルヘルミナさんの表情の謎のことは綺麗さっぱり忘れていた。


(バレた…!)

 回想に遊離していた意識を現実に戻した瞬間、全身から汗が吹き出る。ここ数カ月、バレないように細心の注意を払っていたのだが、今日はタイミングが悪かった。実を言うと、今日の贋作は良いところまで行っていたのだ。確かな手応えを感じていた。そのためにいつもより練習の時間が長くなってしまった。次の瞬間に来るであろうマージョリーさんのお叱りの声に、勝手に体が緊張で強張る。今度は常時メイド服着用程度では済まないかもしれない。猫耳カチューシャの刑か、語尾にニャをつけることになるか…。猫耳メイド服の自分が語尾にニャをつけながら街を練り歩く姿を想像して絶望にブルブルと打ち震える。しかし、

「サユ、私のところに来なさい。カズミが相談に来るらしいから、付き合うのよ」

 自然な動きで視線を戻しサユに用件を伝えると、踵を返して自らの根城である佐藤家の室内バーへ去っていく。どうやら気が付かなかったようだ。サユが小さな安堵の息を漏らし、そしてハッとして抗議の声を上げる。

「また相談ですか!?ボクが行かなくても……」
「あ?なんか文句あんの?」
「ひィーっははははは!大人しく従っておかないとまた調教のレベルが上がっちまうぜ、白銀の嬢ちゃん!こう見えても我が姫君は可愛いものを愛でることには目がなくてイデデデデ」

 流し目でじろりと睨んでくる歴戦の猛者と、彼女に爪で引っ掻かれている分厚い本――――戦闘狂にして強大な紅世の王、『蹂躙の爪牙』マルコシアスの恐ろしい脅迫。隠し事をしているという負い目もあるサユがそんな無言の暴力に反抗できるはずもなく、

「イエ、ナンデモナイデス…」

 と、がっくりと肩をうな垂れて応えるしかなかった。カズミとは、坂井悠二を慕う少女の一人、吉田一美のことだ。大人しく、けれども芯の強い、シャナとは正反対の在り方をしている友人。マージョリーとはいつのまにか相談に乗ってもらうほどの仲になっていたらしい。坂井悠二だった頃には気付いていなかったことだ。一週間ほど前にその相談に自分も参加するよう強制されたのだが、その相談の内容はサユにとってなんとも複雑なものだった。

(吉田さんの相談っていうのが、“坂井くんとのこと”なんだもんなぁ…)

 これすなわち、『恋の相談』である。しかも、その内容は『どうすれば坂井くんともっと親密な関係になれるか』というものだ。たしかにその相談に自分は打ってつけだろう。なんたって他ならぬ自分自身のことなのだから。それ故にマージョリーさんに同席を求められている。だが、こちらからしてみればその相談は延々と告白を受けているのも同じだ。自分が元坂井悠二だと伝えていない吉田さんを騙してしまっているようで申し訳ないし、何よりとても気恥ずかしい。
 はーっ、と大きなため息を吐いてマージョリーの後を追おうと重い一歩を踏み出す。と、マージョリーが「あ、忘れてた」という表情でこちらを振り返った。どうしようもなく嫌な予感しかしなかった。

「そうそう、ちびじゃりからも伝言よ。『用事が終わったら一人でうちに来い。異論は認めない』だって。たしかに伝えたわよ」

 モテモテで羨ましいわね、とひらひらと手を振ってマージョリーは屋内へと消えた。後には、目から滝のように涙を流すサユとその肩を優しく叩く啓作と栄太が残された。



「ありがとうございました!とっても参考になりました!」

 そう言ってこちらの手を握ってぶんぶんと上下に振り回す吉田一美の満面の笑みに、サユは今できる精一杯の笑顔を返す。その一美の背後ではマージョリーがこみ上げてくる笑いを必死に押し込めようと全身を震わせて悶絶していた。胸元のテイレシアスからも笑いを堪えるような気配がヒシヒシと伝わってくる。一美の相談はサユが予想していた通りのものだった。曰く、『坂井くんともっと触れ合うにはどうすればいいのか?』『坂井くんは鈍感だから、こちらから積極的にいくべきなのか?』『坂井くんは巨乳よりも貧乳の方が好きなのか?ていうかそもそもシャナちゃんは貧乳以前に幼女に分類されるのではないのかこれはもうアグネスの出番じゃないのかあの乳臭いロリ赤毛は早く××ばいいのに』などのようなものだった(最後の部分は自分の幻聴だと思いたい)。

「サユさんの助言って、何だかすごく説得力があるように思えるんです。どうしてでしょう?」
「さ、さあ?ボクには検討もつきませんいやホント。そんなことはともかく、坂井くんとのこと頑張って下さいね一美さん!応援してますから!」

 頬が引き攣りそうになるのを全身全霊の力を振り絞って封じ込め、サムズアップと共に一美に応援の言葉を投げかける。その言葉に一美は目を爛々と輝かせながら大きく頷いた。裏若き恋に燃える可憐な少女の瞳にどこか獲物を狙う肉食獣にも似た迫力を感じてサユの背筋を汗が伝う。この時間の坂井悠二には同情せざるを得ない。

「どうやらいいアドバイスを貰えたようね、カズミ」

 この状況を大いに満喫したらしいマージョリーが頬をテカテカと輝かせながら満足げに話しかける。一見すると包容力豊かなオトナの女性そのものだが、サユには心中でゲラゲラヒーヒーと息も絶え絶えに笑い転げているマージョリーの姿しか思い浮かばなかった。

「はい、マージョリーさんもありがとうございます。何だか自信が持てた気がします。私、シャナちゃんみたいに強くないし、綺麗でもないけど、それでも自分の全てを坂井くんにぶつけてみようと思います。もし坂井くんが私を選ばなかったら、その時は坂井くんを××して私も××××!」
「若いっていいわねぇ」
「ヴァイオレンスだな嬢ちゃん!ヒィーハハハハ!」
「これが人間界で噂のヤンデレというやつか。実に真っ直ぐな生き様ではないか」

 一人と二体の人外たちが思い思いに勝手なことを言う中、サユは心の中で悠二にそっと手を合わせた。どうか安らかに眠ってくれ。南無。



「アラストールたちはこの中にいて」
「待てシャナ、いったい何をすr」
「おい、この偏屈ジジイと一緒は勘弁しr」

 驚くアラストールとサユから強奪したテイレシアスを問答無用で机の引き出しに放り込み、ばたんと大きな音を立てて閉じ込める。その上からさらにガムテープで隙間を塞ぎ、こちらの音が中に聴こえないように万全の密封対策をとる。淡々とした動作でその作業を終えると流麗な黒長髪を翻して振り返り、仁王像のように腕を組んで。その眼光の先にはフローリングにちょこんと正座させられているサユ。シャナの憮然とした表情はどこか恥ずかしげで、そしてとてもとても不満げだ。
 今、ボクとシャナがいるのは坂井家にある悠二の私室である。部屋の主はどこかへ行っているらしく(おそらくはシャナに追い出されたのだろう)、二人きりの部屋には必然的に嫌な沈黙が充満することとなる。まったく同じ顔貌の美少女がじっと見つめ合っている様は傍から見れば奇妙に映るだろう。その奇妙な沈黙を破ろうとシャナが思い切って口を開きかけるが、その度にあー、うー、と呻き声を上げて口を閉じるという作業を繰り返す。嫌な予感しかしなかったが、長居していると会いたくない人に会ってしまいかねないし、何よりこのまま黙っていると確実にシャナの機嫌を損ねてしまうことは長年の経験でわかっていたので腹をくくって恐る恐る質問することにした。

「ねえ、シャナ。話ってなに?」

 親同然のアラストールにすら言えないようなことで、しかも自分と二人きりでしか話したくないようなこと。さらに先ほどの吉田さんの相談の内容も加味すれば、だいたい予想はついた。

「悠二とのこと、なんだけど…」



(ああ、やっぱり)

 内心で苦笑する。“この時間”のシャナも、吉田さんと競う形で坂井悠二に恋をしている。完全なフレイムヘイズとなるための教育の過程で人間的な感情をほとんど一切教えられてこなかったため、現時点ではシャナ本人は自分の感情が恋なのかどうかも漠然としていてよくわかっていないかもしれない。独占欲からくる感情か、もしくは自らの負けず嫌いの性格が原因だとでも思っているかもしれない。しかし、その種は確実に恋心へと成長していく。未来から来たボクが言うのだから間違いない。そして、この話はシャナにも話したことがあるのだった。

「あはは、シャナは心配性だなぁ。この間も心配いらないって言ったじゃない。少なくともボクの時間軸ではシャナとボクは結ば―――」
「あ゛あ゛ん!?」

 途端、シャナの総身が火山もかくやと火の粉を散らして燃え立った。黒髪は音を立てて紅蓮に染まり、その両眼は地獄の釜と繋がっているのではないかと錯覚させるほどに真っ赤に煮えたぎっている。地獄の鬼も裸足で逃げ出す迫力にボクは「結ばれた」と言いかけた口を慌てて閉じ―――られなかった。目にも留まらぬ速さで突き出された手に頬をむんずと掴まれたからだ。

「ひゅいっ!?ヒャ、ヒャナ!?」
「よくも抜け抜けとそんなこと言えたわね…私が何も知らないとでも思ってるの…!?」

 フローリングを舐めるように埋め尽くす炎の照り返しを下から受け、これでもかと眉を吊り上げたシャナの迫力がさらに増す。慌てて後ろへ後退ろうとするが、超常の紅蓮の炎にたちまち周囲を取り囲まれた。逃げ場を完全に塞がれたことをようやく理解して、ボクは顔を真っ青にしながらぱたぱたと手を振って無実を主張する。シャナとのことで嘘は言っていない。それは誓って本当のことだ。

「弔詞の詠み手から聞いたわよ!お前、一美に助言してるそうじゃない!」

あ。

「ひょ、ひょれは…」
「何よそれ!全然フェアじゃない!」
「ひゃあああああ!!ひゃふへへええええ!!」

 ヒステリックに叫びながら頬を上下左右に引っ張るシャナ。あまりの怪力に頬肉がもぎ取られそうだ。助けを求めるが、普段は止めに入ってくれるはずのアラストールもテイレシアスも引き出しの中だ。

(ああ、さようならボクのほっぺた)

大粒の涙が空中に虚しく飛散するのを視界に入れながら心の中で自分の顔面に別れを告げる。

その時、

「シャナちゃん、サユちゃん、どうかしたの?」
「「あ…」」

 ガチャリと、懐かしい声と共に妙齢の女性が扉から顔を出した。おっとりとしているようで実は誰よりもしっかりしている、坂井悠二の母親にしてアラストールすら叶わない最強の存在、坂井千草。ボクがまだ坂井悠二だった頃の、母親。ふと周りを見渡すと、頬の痛みも部屋を満たす尋常ならざる炎も消えていた。見れば、シャナは眉根を寄せて苦しげにこちらを見ていた。その瞳はしまったと言わんばかりだ。それに「大丈夫だから」と微笑を返し、ひりひりと痛む頬を抑えながら平静を装って出来る限り“他人のように”答える。

「騒いでしまってごめんなさい、“千草さん”」
「…千草には、関係ない」

 フン、とシャナが気まずそうに唇を尖らせてそっぽを向く。あらあらと柔らかな苦笑を浮かべる“千草さん”。その一つ一つの温かみのある仕草にどうしようもない恋しさと懐かしさがこみ上げてきて、胸が強く締め付けられる。出来れば、もう会いたくはなかった。紅世の住人との戦いに巻き込むのを避けるためとはいえ、かつて自分が捨ててしまった母親に会わせる顔など、持っていなかった。

「でもねシャナちゃん、サユちゃんはこんなに痛がってるわよ」
「…ッ!」

 不意に手が伸ばされ、千草さんの指がボクの目元をそっと拭う。目の前に、かつての母親の顔が迫る。頬を伝い落ちる涙が繊細な指にせき止められ、滴となってポタリと床に落ちた。ずっと前に捨ててしまった、体の芯まで馴染んだ感触。幼い頃の思い出が胸の内から溢れ出す。
 この涙はシャナに頬を思いっきり引っ張られたから流れたもののはずなのに、なぜか痛みが引いた後も止まる気配を見せてくれない。どんなに頑張って我慢しようとしてみても、際限なく次々と床に落ちて飛沫を上げる。まるで決壊したダムみたいだ。情けないから早く止まって欲しい。こんなざまでは千草さんの顔をまともに見られないじゃないか。

「あらあら、そんなに痛かったのね。妹をイジメちゃダメよ。シャナちゃんはお姉ちゃんなんだから」
「…うん、わかった。もうイジメない」

 よかったわね、ちゃんと仲直りするのよ、と頭を優しく撫でられる。囁かれたその声に、ボクはただただ俯いたまま何度も頷くことしか出来なかった。
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